[#表紙(表紙1.jpg)] 不良少年の映画史 PART1 筒井康隆  目 次  モンティ・バンクス  「黄金狂時代」  「ロイドの巨人征服」  「モロッコ」  「キング・コング」  「鯉名の銀平」  シャリアピンの「ドン・キホーテ」  「にんじん」  「世界の終り」  「丹下左膳餘話・百萬兩の壼」  「|密林の荒鷲《ヤング・イーグルス》」  エノケンの「どんぐり頓兵衛」  エンタツ・アチャコの「あきれた連中」  「海賊ブラッド」  「モンテカルロの銀行破り」  「エノケンの千万長者」  エンタツ・アチャコの「これは失禮」  「おほべら棒」  「隊長ブーリバ」  エノケンの「江戸っ子三太」 [#改ページ]  モンティ・バンクス  敗戦後まだ二、三年というその時代、ぼくは不良少年だった。  それは学校を怠け、朝から映画ばかり見に行っていた時期である。中学一、二年生の頃である。  親の金をくすね、父の蔵書を持ち出しては売りとばし、時には母親の着物を売りとばしたこともあり、そうした金で映画を見て歩いたのだった。父親にはずいぶん殴られたが、それでも映画の魅力はぼくを捕えて離さなかった。その頃見た映画の記憶は不思議なことに最近見た映画の記憶に比べて驚くほど鮮明である。記憶の中では新鮮ですらある。少年時代のぼくを有頂天《うちようてん》にしたそれらの映画のかずかずを、これから、ぼくが見た順にではなく、それらの映画が作られたおよその年代にしたがって物語っていきたい。つまり敗戦後にぼくの見た映画は、新しく製作され封切られたものではなく、戦前戦中に製作された古い映画の再上映である場合が多かったので、そういう配列にした方が、いわばひとりの不良少年が彼の見た映画だけを手がかりに映画史を語るという形式になり、多少なりとも体裁はよくなる。だいぶ長期にわたる連載になりそうで、まあ数年間おつきあい願うことになるであろう。  モンティ・バンクスを見たのはただ一度である。中学一年の時であった。場所は大阪歌舞伎座の正面の、千日前の通りを隔てて向かい側、のちアシベ映画劇場の庭になった小さな映画館。現在はアシベ会館というパチンコ屋になっている。アシベ映画劇場も今はアルサロ・ユメノクニである。大阪歌舞伎座といっても現在の御堂筋に面したあれではなく、のち千日デパートとなった昔の歌舞伎座。あの映画館はなんといったのだろうか。便所に入ると舞台のスクリーン裏へ通じる階段があった汚い映画館だ。一時は寄席でもあったようだ。やたらに奥へ向かって細ながい、変な映画館であった。(「エノケンの千万長者」の章参照)  そもそもその頃のぼくの服装はといえば、寸詰りの詰襟《つめえり》国民服、肩からは母親手縫いの布製|鞄《かばん》、鞄といえば聞こえはいいが友達から頭陀袋《ずだぶくろ》と笑われた不細工な代物で、白かった布地は汚れて鼠色《ねずみいろ》、下半分は弁当から滲《し》み出た醤油や汁のしみで茶色くなっているという、独特の臭気に満ちた不潔な鞄である。ふつう登校する時は学生帽をかぶっているが何しろサボっているので東一中という校章を見られてはまずい為、これを脱いで頭陀袋の中へ入れている。頭は丸刈りで靴は軍隊式|編上靴《へんじようか》であった筈《はず》だ。夏になればこれが上はよれよれのワイシャツ、下はやはり寸詰りで今にも横っちょからペニスがはみ出しそうな半ズボンに変るだけである。  と、まあそういったような風態《ふうてい》で朝から盛り場をうろうろしていたわけであって、今なら不審の眼で見られるだろうがその頃はまだ浮浪児、浮浪者が多く、一般の人たちも服装は見すぼらしかったからさほど目立たなかったのであろう。映画館が開くのは十時半とか十一時とか、または正午開場などという館もあるので、それまではあちこちうろついて時間を潰《つぶ》すことになる。この間にそこいら辺の映画館の看板や時間表を見て歩き、その日見る映画を決めるのである。  弁当は埃《ほこり》っぽい映画館の中で食べた。たまたま満員で空席がなかった場合、立ったままでは食べられないので、空いていそうな別の映画館に入って食べてしまう。ところがモンティ・バンクスを見た時は、空席があったにかかわらず弁当を食べる余裕がなかった。男色の中年の浮浪者がいて、こいつがぼくに目をつけ、隣席にやってきて腰かけ、手をのばしてペニスを握ろうとしはじめたのだ。とても落ちおちしていられないので席を立ち、いちばんうしろで立って見ているとまたもやすり寄ってきてペニスをまさぐりはじめる。せっかくの面白い喜劇映画も、このおっさんのためじっくり楽しめなかったことは返すがえすも残念であった。  この時見た映画は、古いキネマ旬報で調べるとどうやら「PLAY SAFE」であったようだ。日本では昭和三年の四月に「無理矢理ロッキー破り」のタイトルで封切られている。製作はアメリカ、パテー社で、昭和二年の一月に完成、発売されているから、もちろん無声映画である。ぼくが見た時は「モンティの驀進王《ばくしんおう》」とかなんとか、そんなタイトルに変えられていて、弁士による解説と音楽が吹きこまれていた。 (画像省略) 「無理矢理ロッキー破り」はモンティ・バンクスの日本公開第二弾であった。第一弾は「無理矢理一万|哩《マイル》」。昭和二年十二月上旬号のキネ旬の「無理矢理ロッキー破り」の解説を見るとこうなっている。 「無理矢理一万哩」と同じくモンティ・バンクス氏主演喜劇で氏の原案になる物語をチャールズ・ホーラン氏とハリー・スウィート氏が脚色し、「結ぶ縁恋の釣天井」「毒蛇」等と同じくジョゼフ・ヘナベリー氏が監督したものである。バンクス氏の相手女優は「男見るべからず」「ブロークン・ロー」等出演のヴァージニア・リー・コービン嬢が勤めチャールズ・ジュラード氏、チャールズ・メイルズ氏、バッド・ジェーミソン氏等が助演している。  この解説のあとに略筋《あらすじ》が書かれ、最後に批評として「スピードに富む戦慄《せんりつ》と哄笑《こうしよう》との喜活劇で面白いもの(ウォールド誌シー・エス・スウェル氏)」という、批評というより宣伝文句に近い一文がつけ加えられている。  ストーリイなどはまあ、あってなきが如きものであったが、キネ旬と首っぴきで簡単に書くとこうなる。  クレイグ家の巨額の財産の継承者ヴァージニアは、腹黒い後見人が自分のろくでなしの息子と彼女を結婚させようとするので家出をしてしまう。嵐《あらし》を避け、街かどに佇《たたず》むヴァージニアがハンドバッグを悪漢に奪われようとした時、クレイグ工場の一雇人であるモンティがこれを助け、彼女と知りあう。  ヴァージニアが後見人に見つかってつれ戻されたり、モンティが馘首《くび》になったり、さまざまなことがあって、最後はヴァージニアをつれて逃げるモンティと、これを追う悪漢たちの活劇になる。この活劇のほとんどが、驀走《ばくそう》する貨物列車の上で行われるわけで、むろん一番の見どころは、全六巻のうち後半三巻のほとんどを占めるこの部分なのである。ずいぶんギャグが使われていて、そのギャグが使い古されたギャグなのかどうかまだ判断できなかったぼくにとって、これはたいへん面白かった。  平行して走る二台の貨物列車。片方の屋根にはヴァージニア、もう一方の屋根にモンティ。モンティは屋根から屋根へ板を渡し、その板の上を渡ってヴァージニアのいる列車に移ろうとする。と、二台の貨物列車のレールにはさまれて立っている鉄柱が見るみる迫ってくる。板ぎれはまん中でぽっきり折れてしまい、折れた板の端っこにぶら下がったモンティ。つまり写真頁の広告の絵の如き有様となるわけである。けんめいに板の端を引っぱるヴァージニア。だが、ついに力尽き、あっ、もう駄目、とか何とか言って手を離してしまう。山の中腹を走っていた列車から転落したのであるからたまらない。モンティは勾配《こうばい》の急な岩だらけの崖《がけ》を、ぼうん、ぼうんと大きくバウンドしながら足を上にしたり頭を上にしたりして落ちて行く。  で、落ちたところはもとの貨物列車の屋根の上。しかもヴァージニアの隣りに並んでちょこんと腰をおろしてしまう。貨物列車が山腹をまわってひと足先に下まで来ていたのだ。抱きあう二人。観客は大笑い。  四月下旬号のキネマ旬報では、編集部がこの映画を批評している。全文紹介しよう。 「モンティー・バンクスの『無理矢理一万哩』に続く映画で、矢張前作と同じく、内容皆無──と言つてナンセンスでも無い──のバンクス一人の動きに笑ひを得ようとする笑劇で、前半等随分使ひ古したギャグの連発であるが、後半、運転手の無い列車でロッキーの険を突破する辺りからは、スリルもスピードも相応にあつて中々愉快、蓋《けだ》し前半の退窟を補つて余りある痛快さである。バンクスは大車輪、他の人々は皆平凡で、ヴァージニア・リー・コービンも近頃の映画程には可愛くない。ハイ・ブロウの観客は別として一般には中々受ける映画である。──村上久雄──」  この頃のキネ旬では、批評のあとに興行価値というのを必ずつけ加えていて、それがなかなか面白い。この映画の場合は次のように書いている。 「興行価値──目新しくはないが相応に笑ひはあるし、ロッキー越えの痛快さは凡俗の喜劇映画には一寸求め難いし、一流常設館でも添へ物になら充分使へるし、都会、地方共に添へ物としてなら大いに便利な映画」  どうやらぼくは、さほどハイ・ブロウの客ではなかったようだが、なにしろこの映画が製作された頃全盛であったロイドやキートンのスラプスティック喜劇を、それまでまったく見ていなかったのだからしかたがない。いかに使い古しのギャグであろうと、すべて新鮮に眼に映じたのである。  この映画が封切られてしばらくしてから、つまり昭和三年の六月、モンティの第三弾「HORSE SHOES」(日本でのタイトルは「幸運馬蹄騒動記」)のフィルムが日本に到着している。内容は似たようなものだが、この映画でモンティの相手役をしているのがなんとデビューしたばかりのジーン・アーサー。ご存じ「シェーン」のお母さん役の、今は亡きあのジーン・アーサーである。昭和三年といえばぼくが生まれる六年も前だが、「シェーン」で青春時代のぼくの胸に、その美しさによって強烈な印象を残した彼女が、そんな頃からすでに二流の喜劇映画などに出て活躍していたことを知ると、なんとも言えぬ変な気持になる。  モンティ・バンクスというのはチョビ髭《ひげ》をはやした小男で、当然ぼくはチャップリンを連想した。昭和四十七年の十一月、「週刊小説」のために淀川長治氏と対談した時にも、そのことにこだわっている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  筒井 じゃあ古い方にいきますと、やっぱりタルマッジと同じように戦前に封切られたものだと思うのですけども、戦後三流館で上映されたんでね、チャップリンそっくりの扮装をしたモンティというのご存じですか。  淀川 モンティ・バンクス、よく知ってますとも。  筒井 やっぱりあれはチャップリンのにせものですか。  淀川 にせものじゃないんですね。モンティ・バンクスいうのは、やっぱりモンティ・バンクスの個性で出てきたんですけどね。モンティ・バンクスはどっちかいうと、紳士風の、ルンペンじゃない若旦那で、やっぱり三揃いちゃんと着ていますからね。あなたがチャップリン風に思われたこと、小男なんですね。そうしてちょっと八の字のチョビ髭はやしているんですよ。それであなたがチャップリンのことを思われたんでね。ちょっと違いますね。モンティ・バンクスの滑稽《こつけい》は、おもしろい中にエロチック入れるのですね。あの人どうもエロチック入れるんですね。汽車に乗ったりして、ドタバタがあってね。女の寝台に飛び込んでしまったり、そういうのが多かった。モンティ・バンクスはそれに列車のハラハラ滑稽スリルも良く見せましたね。 [#ここで字下げ終わり]  淀川長治氏の言うエロチシズムは、ぼくが見た「無理矢理ロッキー破り」の方ではあまり見られなかった。せいぜいヴァージニアがモンティの下宿で濡れた服を乾かすシーンぐらいである。もっとも、ぼくが子供だったので感じなかったせいもあろう。淀川氏の言う寝台へとびこむギャグは、ストーリイを読んだ限りではどうやら「幸運馬蹄騒動記」の方であったらしい。  ただしキネマ旬報の評に反し、ぼくにはヴァージニア・リー・コービンがずいぶん美しく思えた。若いし、ぴちぴちしているところが魅力的であったし、そもそもぼくの不良少年時代は敗戦直後、当然のことであるがそれほどの美人には外国映画の中でしかお目にかかれなかったのである。特にこの時期に見た外国女優の美しさなど、今の外国映画からも得られない。  だいたいにおいて、素敵な若い美人が登場するのは二流映画に多かったようだ。大作だとたいてい、演技力はあるけれどすでに中年になった大女優が主役を演じるわけで、モンティ・バンクスが活躍した昭和初期にだってグロリア・スワンソン、ドロレス・デル・リオ、リリアン・ギッシュなどという大ヴェテランが幅をきかしていて、前述のジーン・アーサーみたいな駈《か》け出しはいくら美人でも二流の喜活劇にしか出してもらえなかったのであろう。ハリウッドに美人があふれ返り、ありあまっていたという、古き良き時代である。事実この頃の批評には、ジーン・アーサーが美人過ぎて、矮漢《わいかん》モンティの相手には勿体《もつたい》ないなどとも書いている。  こののち、モンティ・バンクスの映画は昭和三年の九月に「KEEP SMILING」が封切られている。邦題は「水陸突破死物狂い」。ただし作られたのは大正十四年の九月で少し古い作品。「無理矢理ロッキー破り」が興行的に成功したし、三作も封切られて馴染《なじみ》ができたため、昔のものまで輸入したのであろう。  この前後、モンティはパテ・ピー・ディー・シー社で昭和二年八月「AN ACE IN A HOLE」(切り札)を作り、同年十二月、パテ・インターナショナル社でもう一度ジーン・アーサーをパラマウント社から借りてきて「FLYING LUCK」を作り、翌三年七月にはイギリスへ渡りブリティッシュ・インターナショナル社で、「ADAMS APPLE」を作っている。全盛時代だったのであろう。このうち「ADAMS APPLE」は「高速度珍婚膝栗毛」として三年十二月に封切られ、「FLYING LUCK」は「無理矢理空の大統領」として四年五月に封切られている。この頃になると批評にも「定評のあるモンティ・バンクス喜劇」などと書かれている。面白さと興行価値の水準が安定してきたのであろう。  喜劇の黄金時代が終り、トーキーになってからのモンティ・バンクスがどうなったか、その消息は知る術もない。当時のアメリカにおける喜劇俳優の、興行価値から見た常設館主の人気投票では一位ハロルド・ロイド、二位チャールズ・チャップリン、三位シドニー・チャップリン、四位バスター・キートン、五位ジョニー・ハインズ、六位ダグラス・マックリーン、七位アル・クック、八位ハリー・ラングドンという順で多士済済《たしせいせい》。モンティなどは作品数も少かったし、デビューして間もなくトーキー旋風がやってきたので、おそらくすぐに消えていったのであろう。キネ旬を丹念に見ていけば消息短信欄に何か見つかるかもしれないが、じつはまだ全部に眼を通していない。何か見つかればまたご報告しよう。(「モロッコ」の章参照)  不良少年当時、喜劇は、よほど面白くなかったものでない限り二度、三度と繰り返し見る習慣だった。映画が終ると客席の横の、庭もしくは道路へ出る為の非常口がいっせいに開けられる。館外に真昼の陽光がさんさんと満ちているのを見ながら、どうしようかなあ、もう一度見ようかなあ、もう一度見ていると帰りが遅くなるしなあ、あまり遅くなるとまた学校をサボって映画に行ったんじゃないかと疑われるしなあ、などと考えながら迷っていたことを思い出す。面白い喜劇を見た翌日、今日こそはまともに学校へ行こうという気でいても、昨日の映画の面白さが忘れられず、ええい、もう一度見に行ってやれとばかり盛り場へ足を向けるのだ。  当時ぼくは阪急電車の千里山から大阪市内の天満橋にある市立東第一中学校へ通っていた。天神橋が阪急電車の終点で、そこから阿倍野橋行きの市電に乗り換え、さらに北浜で天満橋行きの市電に乗り換えるわけで、家から学校までは約一時間かかる。北浜で市電を降りず、そのまま乗って日本橋一丁目まで行くと、千日前までは歩いてすぐなのである。今日はサボってやろうという日など、この北浜近辺を通過する時には登校中の学友に見つからないかと思ってずいぶんひやひやしたものだ。  帰りは尚《なお》さら危険である。大阪市内には級友が多く、学校が終ったあとはそのまま電車で帰るやつもいれば盛り場へ出てくるやつもいる。道や電車の中などで見つかれば「お前今日学校へ来なかったな」といわれ、教師に報告されてしまう。気を配っていたので、あの頃以来ずいぶん眼つきが悪くなってしまったような気がする。  阪急電車に乗ってしまえばもうひと安心、しかし、学校をサボったことが家族にはすでにバレてしまっているのではないかという不安がまだ残っている。父親の上着のポケットから、あるいは母親の財布から金を抜いたことがバレてしまっているのではないか。家の近所から同じ学校に通っているあの伊達というお節介な同級生が、またしてもおれの家にやってきて、今日おれが学校を休んだことを母親に告げ口しているのではあるまいか。そうした不安と、面白かった映画のあと味とがごっちゃになり、悲しいような怖いような、まことに奇妙な気分で電車の窓から外を見ると街はもはや暮色に包まれ空には夕焼け雲が流れている。  こんなことをしていておれはいったいどうなるのだろうとか、勉強がずいぶん遅れてしまったが無事上の学校へ進めるだろうかといった、シリアスな考えがまったく頭に浮かばなかったことは今考えても不思議でしかたがない。戦争のため世の中が滅茶苦茶になって二、三年めの頃だから、どうせまた滅茶苦茶になるに違いない、なるようになれとでも思っていたのだろうか。  悪事の露見や父親から受ける体罰におびえながらも、それでもあの頃のぼくはそれなりに満ち足りていたのではなかったかと思うのだ。中学一年生が学校をサボって映画を見に行くことは常識的にはあきらかに悪事である。許されぬことであるが故にますます映画への想いはつのり、その面白さは倍加したのであろうと考えることができる。映画を見たい、どうしても見に行きたいという焼けつくようなあの頃の思いが今のぼくにはない。実際に映画が面白くなくなったのだろうか。それともぼくが老化し、退歩したのだろうか。きっと両方だろう。ぼくが老化しただけではない筈だ。あの頃見た映画、あるいはあの頃ぼくが見逃した映画が見られるなら今でも見たいという気持はまだ充分あるのだから。 [#改ページ]  「黄金狂時代」  戦争で大阪市内の繁華街はほとんど空襲による爆撃のため焼け野原になっていて、四ツ橋近辺もその例外ではなかった。ところがその四ツ橋の中心部、橋のすぐ傍《そば》にある電気科学館だけはなぜか焼け残り、戦後も雑草の生えた焼け跡の中にその細長い姿でひょろりと立っていた。この電気科学館は大阪市立であって、嘘《うそ》か本当かは知らないが日本で最初にドイツから輸入したプラネタリウムを見せる場所として大阪の人間にはよく知られていた。父が市の吏員だった関係上、歴代館長とも親しく、特別優待券などいつも家には二十枚、三十枚と束にして置いてあったから、小学生時代からここへはよく行ったものである。  戦後しばらくの間ここでは客寄せのためか、プラネタリウムと同時に戦前・戦中の古い外国映画を再上映していた。敗戦の年、ぼくは千里第二小学校の五年生であったが、小学五年と小学六年の約二年間、ひとりで映画を見にこの電気科学館までしばしば出かけたものである。当時千里山から梅田までは淡路、十三《じゆうそう》と二回の乗り換えで、四、五十分かかり、さらに梅田から四ツ橋までは市電で三十分以上かかった。今と比べればずいぶん遠かったように思う。市電で四ツ橋に近づくと、焼け野原で見通しが良いため、だいぶ遠くから電気科学館のあの懐しい建物、屋上にでかい地球儀の半割りを乗っけた姿が見えてくる。あっ見えてきたと思い、胸を躍らせたものだ。  プラネタリウムと映画を交互に、しかも同じホールでやるわけだから、映画は星空が映し出されるあの大ドームの片側に映写されることになり、変な席に腰かけてしまうと首ねじ曲げて見なければならない。ここでぼくが見た映画は「巴里《パリ》の屋根の下」や、ダニエル・ダリュウの「不良青年」といったフランス映画、「黄金狂時代」をはじめ「スポイラアス」「カサブランカ」といったアメリカ映画であった。なにしろ小学生なのでメロドラマはいかに名作といえどヒロインが夢みたいな美貌《びぼう》であること以外にはほとんど一、二カットぐらいしか印象に残らず、はっきりと記憶しているのは「スポイラアス」の乱闘シーン、それに「黄金狂時代」のギャグ・シーンのほとんど全部である。その頃からギャグには関心があったのだろう。「不良青年」はエレベーターの中でヒロインとその恋人が口喧嘩をするシーン、「カサブランカ」は霧の中へ主人公たちが歩き去っていくラスト・シーンしか憶えていない。「巴里の屋根の下」は場面をひとつも憶えていず、かわりに主題曲のメロディを全部憶えてしまった。  電気科学館へはたいていひとり、たまには仲の良い友人をさそって出かけたものだが、「黄金狂時代」だけはなぜか、ぼくが「千里山のおばあちゃん」と呼んでいた人と一緒に見に行っている。まだ幼かった弟たちも一緒だった。「千里山のおばあちゃん」はぼくの母方の親戚《しんせき》で、ぼくの一家が戦時中大阪市内にあった家から疎開してころげこんだ松山家の奥さんであった。戦後も家族ぐるみ、松山家に居すわっていたのだ。この時は松山|幸《こう》というこのお婆さん、すでに六十何歳かであった筈で、その後三、四年して、ぼくが中学何年生かの時に亡くなってしまった。 「黄金狂時代」は冒頭からぼくを驚かせた。それまで映画で見ていたエノケンやロッパが、ギャグ・シーンならともかく少くとも日常的行動ではさほど不自然でない動きを見せていたのに比べ、このチャップリン、そもそも歩きかたからして小児麻痺患者のような身を突っぱらせた奇妙な歩きかたを演じ、ただ登場しただけで客を笑わせてしまう。ぼくも思わずケケケケケと笑ってしまったが、あれは社会常識的にタブーとなっている動きを大のおとなが演じるのを見たための黒い笑いであった筈だ。ぼくはまだサイレント喜劇の伝統的なあのテケテケ歩きを一度も見ていなかったのである。  今となってはあまりにも有名な映画だから、改めてスタッフ、キャスト、ストーリイなどは書く必要もあるまい。ギャグのみを列記する。  断崖《だんがい》の途中の雪の山道をチャップリン演じる「小男」がやってくる。その歩きかたのため、よけい危っかしい。と、彼の背後に熊があらわれ、彼について歩きはじめる。チャップリンが振り返る一瞬前に、熊は山腹の穴へ入る。何も知らないチャップリン。  雪山をおりてきたチャップリン。ステッキをスロープに突き立て、ステッキによっかかった気取ったポーズで小手をかざし、あたりを見まわそうとする。ステッキもろとも片腕がずぼっと雪にめりこみ、ひっくり返るチャップリン。  猛烈な吹雪でトム・マレー演じる悪漢ブラック・ラーセンの小屋にたどりついたチャップリン。出て行けと言われたものの、ドアから吹きこむ風のため出て行けない。風にさからってあがき、単に歩く恰好《かつこう》しかできないというギャグ。  その騒ぎのさなか、一方ではマックス・スウェイン演じる善良な大男ビッグ・ジム・マッケイが吹雪にテントを吹きとばされ、凧《たこ》のようになってとんでいくテントの下端の紐《ひも》を離すまいと握りしめながら、ひきずられるように走り続けるギャグ。  そのビッグ・ジムがテントにひきずられたままブラックの小屋のドアからとびこんできて、そのまま裏口から出て行くギャグ。  今のは何かといぶかり、ビッグ・ジムを見送ろうとしたチャップリンまでが吹きとばされ、裏口からとび出してしまうギャグ。  餓《う》えが迫り、ローソクに塩をかけて食べてしまうチャップリン。  チャップリンとビッグ・ジムが靴を煮て食べる有名なギャグ・シーン。特にチャップリンが靴の紐をスパゲティのようにフォークで扱い、実に旨《うま》そうに食べてしまう絶妙のギャグ。 (画像省略)  極度の餓えのため、ついにビッグ・ジムの眼には、例の突っぱった歩きかたをするチャップリンが巨大な鶏として見えはじめる。ついには鉄砲をとり、チャップリンを追いまわす。チャップリンの人形振りならぬニワトリ振り。  空腹ギャグとでも名づけるべきこのあたりの場面を、ぼくはずいぶん複雑な思いで見ていた記憶がある。チャップリンは陰惨な状況を笑いに転化して見せたわけであるが、ちょうど時代は食糧難の絶頂期で、ぼく自身とうもろこしや大豆の粉でふかしたパンを食べていて、それさえ満腹するほどは食えなかった頃であったから、チャップリンが笑いで包もうとした陰惨さをそのまままともに感じてしまったのだ。だいたいそれまでにぼくが見た外国映画は欧米の文明を見せつけられて羨《うらや》ましく思う類いのものばかりで、パーティや食事のシーンが出てくるたび、ごく、などと音を立てて唾《つば》をのみこんだものである。たとえば貧乏な若い二人が主人公として登場する「巴里の屋根の下」にだって湯気の立つスープやでかいパンが出てくる。あんな旨そうなものを食いながら何が貧乏なものかなどと思ったりもした。したがってチャップリンの空腹ギャグを見てずいぶん不思議に思ったのは、富める国アメリカにおいてよくまあこれほど陰惨な空腹ギャグを考えつける人間が存在したものだということであった。むろんチャップリンがどれほど苦労してきた人かということなどまだ知らない。  敗戦直後、空腹ギャグは日本の喜劇映画ではたいへん盛んだった。ほとんど空腹ギャグだけという「東京五人男」だの「婿入り豪華船」だのという喜劇人オール・スター・キャストの映画も多かった。ただしそれら日本映画の空腹ギャグから感じたいじましさ、卑屈さ、下品さは、「黄金狂時代」にはみごとになかった。シチュエーションが極限状況であることと、チャップリンの、状況には似つかわしくない現実ばなれのした紳士的な態度、そして明るさによるものであろう。ブラックなギャグは極端であればあるほどかえって透明になってくるものだ。  ギャグ・シーンを続けて書く。  酒場女のジョージア・ヘールとクリスマスに会う約束をしたチャップリン、嬉しさのあまり彼女が小屋を出て行くなり大あばれを演じ、枕《まくら》を破ってしまう。枕の中味の羽毛が部屋いっぱいに舞い踊る。忘れ物をしたジョージアが戻ってきてびっくり。  ギャグではないが、クリスマスの夜、ジョージアを待ちくたびれたチャップリンがうたた寝の夢の中で演じる有名なロールパンのダンス。  酒場にやってきたチャップリン。ダンスの最中にズボンがずり落ちそうになり、うしろ手で犬をくくっている紐をズボンに結びつけてしまう。猫が走り、それを犬が追い、チャップリンはひっくり返る。  ジャック・キャメロン演じるプレイボーイのマルカムに侮辱され、帽子を眼の下までずりおろされたチャップリン、マルカムに猛然と殴りかかっているつもりが、眼が見えないので横の柱を殴り続ける。笑うマルカム。柱時計が落ち、マルカムの頭へ。のびているマルカムを見て、自分が倒したと思いこみ、意気揚揚とひきあげるチャップリン。  クライマックスのギャグ。吹雪で小屋が雪の上を走り出し、チャップリンとビッグ・ジムが寝ている間に断崖絶壁の上まで移動してきて今にも落ちそうになっている。朝になり、二人は眼を醒《さ》ますが、歩きまわるたびに家が傾くので不審がる。自分たちがどういう状況にあるのかなかなかわからぬという笑い。真相を知ってからのあわてふためきかた。ロープ一本で支えられている家が、チャップリンのしゃっくりで次第にずり落ちていくスリルとおかしさ。 (画像省略)  このロープの端がひっかかっている岩こそ黄金《きん》だったのだ。死を免れたとたん億万長者になってしまうというわけで、このあたりの話の作りかたはまことに巧みである。  だが今、こうしてギャグを列記してみると、九巻もの長さの、この映画が作られた一九二五年(大正十四年)当時としてはたいへん長篇の喜劇映画であったにしては、ギャグの数は当時の他の喜劇映画に比べてむしろたいへん少い方だったといっていいだろう。これはこの映画の場合ストーリイの中に小さなギャグが溶けこんでしまっているからで、たとえばラスト近く、船の甲板で写真を撮ろうとするチャップリンがカメラマンにもっと後退しろといわれ下甲板へころげ落ちてしまうギャグがあるが、このギャグとは言えぬほど陳腐なギャグも、チャップリンが下甲板にいたジョージアにめぐりあい、さらにまた密航者に間違えられるというストーリイ展開の為のギャグなので、独立したギャグとは言い難いのだ。そうした点が名作喜劇である証拠なのかどうかは断じ難いところだが、このチャップリンのストーリイ重視は特に日本の観客に喜ばれたであろうことが想像できる。  電気科学館で「黄金狂時代」を見て帰った夜、まだ興奮醒めやらぬ弟たちと一緒にその面白さを、チャップリンの身振り手振りをけんめいに真似て父に話した時、いつもならエノケン、ロッパなどの喜劇映画を蔑《さげす》み賤《いや》しむ父が珍しくこう言った。「ほう。『ゴールド・ラッシュ』を見てきたのか。それはよかった。あれは名作だ。うん」  すでに名作イコール面白くないものという図式が頭の中に出来かかっていたぼくには父のことばが意外だった。「ゴールド・ラッシュ」という原題を父が知っていたことでいささか尊敬の念を抱いたりもしたが、それよりむしろ、同じドタバタでありながらどうしてチャップリンの映画だけが名作で他の喜劇は駄目なのだろうかと不審に思ったりした。空腹ギャグに感じた暗さや、後半ジョージアが登場してからのセンチメンタリズムを退屈に感じたことなどを思い返し、もしかするとああいった部分こそが名作の理由なのだろうかとも思ってみたりしたものだった。 「黄金狂時代」が日本で封切られたのは大正十五年、父が大学生の時である。当時大変な評判になりキネマ旬報の「大正十五年度優秀映画投票」の外国映画の部では一一三四票で一位になっている。二位以下は次の通り。 「最後の人」九五八票 「ステラ・ダラス」五六一票 「海の野獣」五五一票 「鉄路の白薔薇」四三一票 「ダーク・エンゼル」三八六票 「ダグラスの海賊」三八三票 「熱砂の舞」三一六票 「ロイドの人気者」二八九票 「滅び行く民族」二四六票  ロイドは九位だが、もう一本の「ロイドの福の神」は三三票で三十九位、「キートンの栃面棒」などは二七票で四十位という有様。日本人のチャップリン好きがわかる。また、前章で紹介したモンティ・バンクスの「無理矢理一万哩」は一二票で六十二位になっている。  父は漱石全集だの世界文学全集だのを持っていて、一応自分なりの文学鑑識眼はあった筈だから、たとえ「黄金狂時代」は見ていなくても当時の紹介や批評で名作の名に価するものだということは知っていたのだろう。ぼくの小学四、五年の時の担任だった教頭などはチャップリンのことをチャランプランと称し、映画、小説、漫画の類いを徹底的に軽蔑《けいべつ》している石頭の田舎者だった。友達から借りていた漫画の本をとりあげられて破られ、困ったこともある。こういう人間に比べれば父など、同じ明治生まれでもずいぶん理解があった方だといえる。  電気科学館で見たすぐあと「黄金狂時代」をぼくはもう一度|吹田《すいた》東宝という映画館で見ている。  吹田東宝は戦中から戦後にかけて小学生のぼくが何度も出かけた三流館で、吹田市の中心部にあった。千里山からは阪急電車で四つめ、または五つめの駅にあたる市役所前もしくは吹田で降りて十分ほど歩いた繁華街にあり、当時は東宝系の邦画、または洋画を上映していた。現在はなくなっていて三栄市場という商店街になっている。  吹田にはこのほか、同じ中心部に吹田館という大映系の三流館と、旭館という松竹系の三流館があった。旭館は松竹のメロドラマばかりやっていたのでほとんど行かず、ずっと後、高校生になってから黒沢明の「白痴」という映画を見に入ったぐらいだが、四時間のこの超大作、トーキーが悪くてせりふが理解できず、何が何やらさっぱりわからなかった。現在は吹田東映と名が変り、東映映画を上映している。吹田館の方へは大映の時代劇を見るためによく行ったが、今は吹田劇場となり、ポルノ映画専門になっている。三十年ぶりに行ってみるとどちらも建物は昔のままで、あたりの下町のたたずまいも昔とさほど変らず、ずいぶん懐しかった。いやいやいや、変ったのはおれの方なんだから気にしないで、どうもどうも、といったような気分だった。  吹田東宝で「黄金狂時代」を見た時は、映画館の前へ行くまで何を上映しているか知らなかったのだが、看板を見てあれあれと思い、それから考えこんでしまった。ふつう喜劇映画だと同じ映画でも二度や三度は喜んで見るのだが、この時だけは父が言った名作ということばが頭にこびりついていて、本当に自分が見た通りの面白さだったのであろうか、二度も見るとあの暗さ、退屈さをより強く感じてしまうのではないかなどと思ったりし、それでも結局はそれを確認するために見てしまったのだった。フィルムは以前よりもひどい状態になっていてぶつ切れの継ぎはぎ、チャップリンが鶏になる場面もなくなってしまっていた。  このすぐあと、ぼくは「ロイドの巨人征服」を見るのだが、その時のぼくの熱狂は「黄金狂時代」に対してはなかったといってよい。この見かたは今でも変らず、「黄金狂時代」に関していえば映画としては超一流だが喜劇としてはただの一流、という変な評価しかできないでいる。「巨人征服」の場合はこれが逆になる。つまり「黄金狂時代」でストーリイの中に散発したギャグは「巨人征服」ではより短い巻数の中でのべつまくなしに頻発《ひんぱつ》し、相乗作用でただ笑いだけをいやが上にも盛りあげていたのだ。  この原稿を書いている途中で突然チャップリンの訃報《ふほう》に接した。書き終えた今、マスコミはチャップリンを完全に神格化し、変な悪口など言えない雰囲気になっている。チャップリンの映画を見て泣かなければいけないというムードなのだ。テレビの追悼番組で宮城まり子が言った「笑うべき場合なのに泣いてしまうことが多かった」という発言がチャップリン映画に対する大多数の日本人の心情を代弁している。だがよく考えてみればそれは喜劇役者にとって侮辱ではないのだろうか。むろんチャップリンが、もはや喜劇役者ではなく芸術家であると考えればそうした言いかたも許されるのだろうけれど。 [#改ページ]  「ロイドの巨人征服」 「ロイドの巨人征服」を見たのは天五中崎通商店街の中にある東宝系の映画館・旭座においてであった。 「天五」は天神橋五丁目の略で、この商店街の中ほどには旭座と、もうひとつ松竹系の映画館・大阪座が並んでいた。さらにそのすぐ近く、国鉄城東線(現在の大阪環状線)天満駅の裏に大映系の映画館・錦座があり、ぼくは小学校五、六年ごろ及び中学生時代、これら三つの映画館でずいぶん勉強し、だいぶお世話になっている。ただし映画館の名前はつい最近まで忘れてしまっていた。じつはこの連載を始める前に取材に出かけたのだが、今は三館ともなくなってしまっている。あの「多羅尾伴内シリーズ」を見に行った錦座は今やけばけばしくネオンに飾り立てられた「HOTELてんま」であった。  天五中崎通商店街の方の二館は、建物が壊されたあとに小さな商店がたくさん並んでしまっていて、他と区別がつかず、そもそもどのあたりにあったのかもわからなくなっていた。だいたいこの辺であろうと思えるあたりの、道を隔てた向かい側に「べにや」という古道具屋があった。ずいぶん古い店である。入っていくと初老の夫婦がいて、かわりばんこにすらすらと教えてくれた。 「あった。二軒並んどった。その辺や。向かって右が旭座、左が大阪座」どちらも左甚五郎の作、とは言わなかった。 「天満駅の裏にもあったでしょう」 「ああ。あれは錦座」まことにはっきりしたものである。ご夫婦で映画好きだったのだろうか。  天神橋六丁目にある阪急電車のターミナル天神橋駅から国電天満駅に到り、さらにその延長で天神橋の手前の鳴尾町にまで到る天神橋筋商店街は、空爆でやられて焼け野原となり、戦後は闇《やみ》市場になっていた。そのころぼくは小学校の友人たちと、あるいはひとりで、天神橋駅からこの復員兵やパン助の徘徊《はいかい》する闇市場を通り抜け、天五で右へ折れて市電通りを越え、さいわい被災を免れていた天五中崎通商店街に入り、旭座あるいは大阪座に通った。五年生の時の年末だったと思うが、「ロイドの巨人征服」は「ロイドの武勇伝」とタイトルを変えられ、弁士の解説や音楽の入ったトーキーとして旭座で上映されていた。  あまりの面白さに、ぼくはその日これを三度見た。「鵜匠」という文化映画だの、霧島昇と松原操が夫婦で出てきて歌を歌うだけという変な短篇映画だの、その他のニュースだの何だの余計な面白くない映画が一時間分ぐらい同時上映されていたにかかわらず、である。「ロイドの巨人征服」が六巻という短さだったため、そういうものを併映したのだろうが、それらもまた退屈さをこらえて三回ずつ見なければならなかったわけで、ずいぶん忍耐力があったものだと感心する。おかげで鵜匠の生活だの、「めんない千鳥」「誰か故郷を想わざる」だのを完全に頭に叩《たた》きこんでしまった。  あまり面白くて有頂天になり、年がかわって正月がくるとすぐ、お年玉をもらって小銭を持っていた弟たちをつれ、また旭座に出かけた。その面白さを頒《わか》ちあう相手が欲しかったのだろう。そしてまたまた三回くり返して見たのである。今度は年末に見た時と違い、正月なので押しあいへしあいの超満員だったが、それでも健気《けなげ》に幼い弟たちの手をひいて、はぐれないよう気を配りながら「見えるか、見えるか」と訊《たず》ね続けていたのを憶えている。いたいけな弟たちも当時の乱暴な大人たちに揉《も》みくちゃにされながら、おとなしくあの退屈な文化映画や何やかやを三度くり返して立ち見したのだから偉いものだ。他に娯楽がなかったことと、おそらく弟たちにとってもあれほど面白い映画は初めてだったからであろうと思う。むろん、館を出た時はすでに夜になっていた。 「ロイドの巨人征服」は原題が「WHY WORRY?」で大正十三年のパテー社作品。日本で封切られたのは同年の末である。当時のキネマ旬報の紹介欄ではこう解説されている。「『要心無用』に次いだハロルド・ロイド氏の喜劇で、サム・テイラー氏原作、フレッド・ニウメイヤー氏とテイラー氏の監督である。此の作品からロイド氏の対手《あいて》役は新進のジョビナ・ラルストン嬢に変更された」  キネ旬の略筋欄でストーリイを追いながら、記憶している限りのギャグを記していくことにしよう。 (画像省略) 「金持でする仕事のないハロルドは、自分が病気であると信じきつて、医者や看護婦を集めては大騒ぎをして居た。熱帯の静かな土地へでも行つたら健康に良からうと、彼は看護婦を連れて南米の或る共和国へ行く事に成つた」  この看護婦役が新進ジョビナ・ラルストンで役名がTHE NURSE。つまり固有名詞はつけられていない。綺麗《きれい》とも可愛いとも可憐ともなんとも形容のしようがない、まさに天使のような美しさである。ロイドの方にはHAROLD VAN PELHAMという金持らしい役名がついている。 「だが、平和を求めに来た彼を迎へたその国は、今や米国人ジム・ブレークの悪策に乗ぜられて、政府軍と反政府党とが、火花を散らした革命戦の最中であつた」  やってきた当座、主人公はそんなこととは露知らず、平和で静かな国と思いこみ、ひとりで呑気《のんき》にぶらぶら散歩を始める。老人が家の外の壁にもたれ、日なたぼっこをしながら眠りこけていて、その頬髯《ほおひげ》や顎鬚《あごひげ》から横の壁にかけて蜘蛛《くも》がいっぱいに巣を張っているというギャグ。  そんな光景を見てロイドはますます「いやー静かだねー」などとご機嫌で歩いていくのだが、実は彼の知らぬところで革命戦は進行していて、彼の歩くうしろでは次つぎに人が死んでいるのだ。例の、知らぬは主人公だけという、映画でのみ効果的なギャグが続く。男と女が争い、刺された女が路上へよろめき出てきてロイドの前で倒れそうになると、あとから男が駈け出てきて女を抱きとめ、家の中へつれ戻る。ロイドはこれをアパッシュ・ダンスと思いこみ、「ダンスはうまいねー。うまいうまい」などと手を叩き、「ますます気に入ったねー」などと言いながらさらに歩き続けるのだ。 「ハロルドは直に捕へられて牢獄へ打《ぶ》ち込まれたが、その中には箆棒《べらぼう》に大きいコロッソと云ふ男が彼と同じ様に囚《とら》はれて居た。二人は力を協《あわ》せて牢獄から逃げ出した」  この大男コロッソが巨人役者ジョン・アースンである。力は無茶苦茶に強く、牢獄の窓の鉄棒などひとねじりでぐにゃぐにゃ。この窓から逃げ出ようとするロイドの足をうしろから持ちあげた大男がぐいとひと押しすればロイドは棒のようにぽーんと窓の外へとび出してしまい、地べたへどすん。心臓がおかしくなったというのでロイドがあわてて持参の薬をのむ。以下、この薬をのむシーンはドタバタが一段落するたびにくり返される。  窓が小さくて頭だけしか出せない大男、ついに窓の周囲の煉瓦《れんが》の壁をぶち壊して出てくる。すごい怪力である。 「虫歯に苦しめられて居るコロッソはハロルドに歯を抜いて貰つてから大いに彼を徳として、之からは何でも彼の命令に服従すると云ふ誓を立てた」  いよいよ篇中の白眉《はくび》、抜歯のくだりである。この大男の虫歯は牢獄に入る前から痛んでいたらしく、怪力の大男が心ならずも兵士たちに捕えられたのはやはりこの痛みのせいだったようだ。ロイドはさっそく細紐を大男の虫歯にくくりつけ、ぐいと引っぱるが紐は切れてしまう。今度は前よりも太くて長い紐を虫歯にくくりつけ、他方の端を自分の腰にくくりつけたロイド、猛烈な勢いで走り出す。と、大男もあわてて|がに股《ヽヽヽ》で走り出し、どこまでもついてくるというギャグ。  じっと立っていろと大男に言い聞かせ、もう一度走り出したロイド、紐がのびきったところですてーんと転倒してしまう。歯は抜けず、ますます痛み出す。  ロイド、今度は傍《かたわ》らの二階建ての屋上に出る。横に高い木があり、ロイドは紐をその木の枝にひっかける。そして自分は屋上から地べためがけてとびおりようとする。つまり彼自身の落下の勢いで歯を抜こうという計算である。だが、とびおりたもののやはり歯は抜けず、ロイドは宙ぶらりんになってしまう。  大男に紐を引っぱらせてまたもとの屋上に戻ったロイド、何か自分の重量をふやすものはないかと屋上を見まわすと、人間ぐらいの大きさのでかい熱帯樹の鉢植が置いてある。こいつを抱いてとびおりてやろうというので手をのばすが、腰に紐がついているので手が届かない。ぐい、と力をこめて前進した途端、大男の虫歯は抜けてしまう。あ、抜けた、と眼を丸くする大男。枝からぶら下がっている虫歯。  そうとは知らぬロイド、でかい植木鉢をどっこいしょとかかえあげ、こいつと一緒にとびおりようとし、足で屋上の端っこをまさぐったりしている。観客は大喜び。  ついにとびおりたロイド。地面に激突し植木鉢はこっぱみじん。あっ、また心臓が、などとあわてて薬をのむロイド。大男がやってきてひざまずき、ロイドの足を頭にのせる。 「家来にしてくだせえ」  ここまで書いてきてはっと気がついた。なんとこれはだいぶ前にぼくがこの「オール讀物」に書いた五十枚の短篇「心臓に悪い」の原型ではないか。話はだいぶ違うが主人公のサラリーマンが自分の心臓病を気に病んでいるところはまったく同じ。頼みとする薬がなくなり、しまいには薬を求めてドーヴァー海峡を泳いで渡り、サハラ沙漠を裸足《はだし》で横断し、密林で土人の毒矢に追われ、氷原でシロクマと格闘し、シベリヤ横断鉄道の中で各国スパイと銃撃戦を演じるというドタバタである。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。あの作品のルーツはこんなところにあったのだなあ、と、現在感無量である。  しかし、いやな気もする。この連載中、ぼくの小説のネタが次第に割れていくのではないかと思うとちょっと不安になるのだ。だがまあ、どんな小説にだってネタや原型はある。気にすることもあるまい。  続けよう。  この前後から、どんないきさつであったか忘れたがロイドの華奢《きやしや》な白靴が駄目になってしまう。いい靴はないかと捜した末、大男の靴を借りて、以後ずっと穿《は》くことになるのだが、これがひどくでかい代物で言うならばドタ靴。写真を参照していただきたい。チャップリンの向こうを張ったのだと思うが、お洒落《しやれ》なロイドがこのドタ靴でどたどたと歩く姿が微笑《ほほえ》ましかった。  ロイドはさっそく大男に、はぐれてしまった看護婦を見つけてこいと命令する。出かけて行った大男、さっそく色の黒い現地人の女を両脇に二、三人ずつかかえて戻ってくる。ロイドは顔をしかめ、そんなのじゃない、はなしてやれと命じる。「胸が悪くなるよ」などという金持ちの若|旦那《だんな》らしい差別的言辞を弄《ろう》するが、これは弁士の創作だろう。  大男、今度は百人ほどの現地人の女をひと束にして縄をかけ、引っぱって戻ってくる。ロイドがまたはなしてやれというので大男が縄をほどくと、女たち、ころんだりひっくり返ったりしながら蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。 「一方看護婦は、ハロルドを恋して居たが、彼と再会して、二人は恋を囁《ささや》く時間を見出したが、予《かね》て彼女に目をつけて居たブレークが来て彼女を奪はうとする」どうも下手糞《へたくそ》な文章で、書きうつしていていらいらする。  この米国人ジム・ブレークという色敵《いろがたき》を演じているのが驚くなかれジェームス・メイスン。最初キネ旬の英文で書かれているキャストを見て眼を疑い、同名異人ではないかとスチール写真を良く見たのだが、やはり間違いなくあの「邪魔者は殺せ」の名優の若き日の姿であった。このメイスンのジム・ブレーク、看護婦を追いまわした末、ついにはロイドにこてんこてんにやっつけられてしまうという役まわり。  ここでまた秀逸《しゆういつ》なギャグがひとつ。看護婦を追うメイスン、メイスンを追うロイド。ロイドがとある建物の二階のバルコニーに出てみれば、なんと向かい側の建物の二階のバルコニーで、メイスンに追いつめられ、抱きすくめられた看護婦がけんめいに抵抗しているではないか。ロイドはあわてて地上にいる大男を呼び寄せ、あそこまでつれて行けと命じる。大男は手をのばし、ロイドが立っているバルコニーを建物からもぎ取ってしまい、バルコニーを頭上にさしあげたままのっしのっしと道路を横切って向かい側の建物までロイドを運んで行く。バルコニーからバルコニーへとび移ったロイドはメイスンをこってりと痛めつける。 「ハロルド大活躍して対手《あいて》を斃《たお》し、巨人と共に革命党を追つぱらつて健康は勿論|恢復《かいふく》するし、看護婦とは楽しい仲と成つたのである」  大男に大砲を背負わせた写真の如きスタイルで市内の革命党と戦っていたロイド、ついに砲丸がなくなってしまう。と、その時平野をやってくる革命党の大軍勢。ロイドたちは町はずれの一軒にたてこもる。土管を塀の上から突き出し、大男がこの土管に葉巻の煙をぷうと吹きこむ。看護婦が太鼓をどんと叩く。ロイドがパイナップルを投げる。最初の一発が先頭をやってくる隊長の顔に命中、彼は落馬する。  煙ぷうぷう太鼓どんどん。次つぎと投げつけられるパイナップル。大軍勢がコマ落しで逃げて行く。文字で書くと荒唐無稽《こうとうむけい》だが、この辺は実にうまく出来ていて、観客は大喝采《だいかつさい》。  このあと、エピローグがある。ニューヨークと思える大都会のビルの最上階。社長室にいるロイドのところへ電話がかかってくる。奥様が無事ご出産ですという朗報。ロイドは机の上の書類をまき散らしておどりあがる。ビルを駈け出たロイド、交差点にやってくる。この交差点の中央ではあの大男が交通巡査をやっていて、ロイドを見るなり附近の自動車を全部停車させ、近くまで来ていた車は足で蹴《け》ったり手で押したりしてすべて後退させる。大男に駈け寄ったロイドが妻の出産を伝えると大男も大喜び、制帽を抛《ほう》り投げ、ロイドと一緒に交差点から駈け去ってしまう。巡査のいなくなった交差点に四方からわっと車が入ってきて卍巴《まんじどもえ》となり、全車身動きがとれなくなる。THE END。  紹介欄末尾の、宣伝を兼ねた批評にはこう書かれている。 「巨人アースン君の出演して居る事が素晴らしく滑稽味を添えて居る。ロイド独特の頭の良い喜劇の連続が例によつて愉快である。喜劇の新しい領野を開拓したロイド氏の功績を賞すべきである(ワールド誌シー・エス・スウエル氏)」  ところが同じキネ旬の八号あとの批評欄では、岩崎秋良という人があまり香《かん》ばしくない評価をしている。全文紹介しよう。 「本当のユーモアに根底を置かない喜劇の価値が如何に低劣なものであるか、それにも拘《かかわ》らず監督の手腕一つによつて如何に面白く見られるか、この様な事を犇々《ひしひし》と味ははして呉れる。ロイド氏は再び喜劇の正道を踏み外して了《しま》つてゐる。大規模なアトモスフィーアと怪物の様な大男とによつて僅かに観客を惹《ひ》き付け得たといふのでは情無い。是《これ》が単に一時の迷ひに過ぎない事を希望する。  といふ様な理屈をこねて見はするが、それでも思はず笑はせられる所が確かにある。唯余り擽《くすぐ》らないで笑はして貰ひたいもんだと思ふ。  新進、ジョビナ・ラルストン嬢は初心らしくて大変に感じの好い役者である事を特筆して置く」  明治人間の批評だから、まあこんなところなのであろう。現在だってこれに近い考え方しかできない評論家もいるくらいだからしかたがない。おそらくこの人のいう「本当のユーモア」とは「人情」とか「諷刺《ふうし》」とかいったことなのであろうし、「喜劇の本道」とは単なるナンセンスでないものを意味するのであろう。この人も一応は笑っているのだが、いくら笑えてもこの人にとって意味のないナンセンスな笑いはすべて「擽り」でしかないし、「低劣」なのであろう。したがって白昼夢のようにシュールな異化効果をあげている部分もこの人には「大規模なアトモスフィーア」「怪物の様な大男」に過ぎなかったのである。「貧困」「ペーソス」「人情」といった、ナンセンスの純粋さを乱し透明さが濁るものを持ちこまなかったという点で、ぼくは今でも喜劇役者としてのロイドを高く評価している。しかしこの時代、キートンと並びロイドはお子様向けニコニコ大会用でしかなかったのだ。 [#改ページ]  「モロッコ」 「モンティ・バンクス」の章を書いた時、トーキーになってからのモンティの消息は不明だと書いたが、その後キネマ旬報を検索するうち、昭和四、五年頃から渡英して、人材に乏しかったイギリス映画界でちゃっかり監督になりすまし、自分の出演しない喜劇映画をたくさん撮っていることが判明した。イギリスには無声映画時代からアルフレッド・ヒッチコックがいたが、この頃はまだこれという作品を発表してはいなかったようだ。トーキーになったためスクリーンから消えていった男優・女優はずいぶん多いが、モンティ・バンクスなどは自分の個性をよく知っていて、うまく転身した方といえるだろう。  トーキーになってから外国映画にはスーパーインポーズがつくようになったが、その第一号が「モロッコ」である。写真を見ていただければおわかりのように、広告にはわざわざ「パラマウント超特作全発声映画・邦文字幕挿入日本版提供」とうたっている。 (画像省略) 「全発声」というのは、過渡期によく部分的トーキーという映画があったので、それと区別するためである。スーパーインポーズということばもまだ一般的ではなかった。翻訳した田村幸彦という人物はわざわざ字幕を作りにアメリカまで呼ばれたらしく、史上初めて日本語の字幕というものを作った苦心談を当時のキネ旬(昭和六年三月十一日号)に寄稿している。 「モロッコ」が上映されるまで、日本で上映される外国トーキー映画は、字幕が出ている間は画面が中断されるという、なんのことはないサイレント映画とまったく同様の有様だった。田村氏はこう書いている。 「然《しか》るに今度パラマウントの採用する新様式は直接画面へ二重焼きで文字を出すのだからオール・トーキー版と何等の変りはなく画面中の人物が喋《しやべ》り出すと同時に、邦語の翻訳が画面に現れるのだから、英語の読めぬ人と雖《いえど》も完全に台詞《せりふ》を了解出来ると云ふのが味噌なのである」  何が味噌なものかあたり前だと思うのは今だからこそである。 「美術的日本文字を書き得るタイトル・ライター」をアメリカで捜すのが、これまた大変だったらしい。募集に応じてきた十五、六人はたいていが失業者でまったく話にならず、中には「個人的の哀れつぽい話を持ちかけて搦《から》め手から」くるのもいたりし、こんなことなら日本から誰かつれてくればよかったと思ったがすでに遅く、邦字新聞社へ出かけて活字で組んでもらったりしたものの、ニューヨークのこととて四号以上の活字は揃《そろ》わない。やっと山本、早川という二人の字書きさんを見つけたが、この人たちだってスーパーインポーズは初めて。「最初の一二本の出来栄えは大目に見て頂きたい」と、田村さん、あやまっている。しかし「モロッコ」のスーパー、ぼくは中学一年の時に見たのだが充分読めたし、今当時のスチール写真を見てもなかなかたいしたもので、さほどおかしいところはない。  そしてまた、どうしても喋るよりは翻訳の方が長くなり、喋る時間と文字の出ている時間を同一にしないと「人物が喋り終つて、シーンが次のカットへ移つても、まだ文字が出て居ると云ふやうな醜体を演じなくてはならない」という問題、さらにまた、台詞をどの程度まで訳すか、「全部の翻訳をしたのでは、観客は読むのに気を取られて、画面の方へ注意が行き届くまいし」といった問題など、なにしろ初めてだけにずいぶん気をつかったらしい。 「そんな訳で、第一回の『モロッコ』では散々苦労を重ねたが、どうやら後一週間もしたら出来上つたものを日本へ送り出せる運びになつた。早く日本に於ける諸君の批評が承りたいと思ふ。これで外国トーキーのプレゼンテーション問題が完全に解決されたとは思はないが、一つの新しい様式として少くとも諸君の研究には値すると信じる」  研究に値するどころか、以後五十年近く、この田村幸彦氏がやったのと同じことをやることになったのだ。  この「モロッコ」をぼくは千日前セントラルで見た。千日前セントラルというのは大劇の前の千日前通りを南へまっすぐ行き、当時よく大サーカスだのストリップだの衛生博覧会だのを小屋がけでやっていたいかがわしい場所を通り抜け、といってもその頃はそのあたり全体がいかがわしかったのだが、とにかくその通りの先にあるやや道幅の狭い商店街に入って中ほどの、さほど大きくない映画館であった。このあいだ行ってみたらまだちゃんとあって、昔通り洋画のセカンドランの二本立て上映をやっていた。 「モロッコ」は戦後すぐあちこちで再上映され、これに対する若い人たちの反響は昭和六年の封切当時に劣らず大きかったようだ。すぐ隣りの真鍋さんのお兄ちゃんもこれに影響されてか、ぼくに会うたびに指を二本|額《ひたい》の前に垂直に立ててちょいと振りかざす、あのゲイリー・クーパー式の敬礼をやっていた。こっちだってちゃんと映画を見ているから別に恰好いいとは思わず、おやおやと思っただけだ。このお兄ちゃんはその数年後ぼくの従姉と結婚して、ぼくの親戚になってしまった。  メロドラマの大嫌いなぼくがなぜ「モロッコ」を見たかというと、戦争シーンがあると思ったからだ。商店街の入口のアーケードの上にはいつも千日前セントラルの広告看板があがっていて、ここにゲイリー・クーパーの軍帽を被《かぶ》ったベニヤ板の大きな切出し絵があった為である。ただし看板の惹句《じやつく》にある「名作」の二文字がどうも気にくわず「名作」である以上は面白いものであるわけがないと思い、さほど見たいとは思わなかった。ところが同じ週に上映されている面白そうな映画を全部見てしまい、週が変っても、「モロッコ」だけは入りがよかった為かいつまでも上映されていたので、なかばしかたなく見てしまったのだ。なにしろ学校をサボっているので、学校が終る時間までは帰途につくことができない。あまり面白くなさそうな映画だって時間つぶしに見なければならなかったのだ。  千里山から阪急電車で天神橋六丁目まで出てくるのがだいたい朝の八時か八時半ごろである。それからどうするかというと、家から金を盗み出してきている時はそのまま梅田方面か千日前方面、時には足をのばして天王寺方面まで映画を見に行く。父や母の監視の眼が鋭くて彼らの財布から金を抜きとれなかった時は、家から持ち出してきた父の蔵書を売りとばしに天神橋五丁目へ向かうのである。天神橋筋商店街に入って五分ほど歩けば天神橋五丁目。商店街と交叉《こうさ》しているここの路上には露天商がずらり店を並べていてその中に古本を売買している天然パーマのお兄ちゃんがいた。ぼくより少し歳上と思えるその弟が店を手伝っていることもあった。このお兄ちゃんに、ぼくはずいぶん父の本を売りとばしたものだ。いちばん最初に売ったのが忘れもしないオズボーンの「生命の起源と進化」。これは岩波書店の本だったのでずいぶん高く買ってもらい、それで味を占めたのである。ただしそれまでぼくも愛読していたその本をどうしていちばん先に売る気になったのか、その辺のところは記憶にない。 「岩波の本ならいい値で買うよ」  お兄ちゃんがそう言ってくれたので家をずいぶん捜したが、他に岩波の本はなかった。 「三太郎の日記、なんてものはないかねえ。あれがあったら高う買うんやがねえ」  むろん父は哲学と無縁の動物学者だから、有名な阿部次郎先生の代表作も家には見あたらなかった。せいぜい「ツァラトゥストラ」があったぐらいである。この「ツァラトゥストラ」は造本が悪く、表紙がとれていたのでどうせ高くは買ってくれまいと思い、売らなかった。お蔭で高校時代、文語訳のこの本をぼくはひと夏かかって読み、ショーペンハウエルやアルツィバーシェフを併読したためもあって、その後の約二年間、ニイチェかぶれになってしまったのだ。  話が横道へそれてしまったが、今後もたびたびそれるので、以後いちいちご容赦《ようしや》は願わない。そういう具合にして本を売り、うまく数十円の金を手に入れても、時間はまだ九時頃である。市電で千日前へ出てきてもまだ十時前。映画館はどこも開場していない。十時半になってやっと開場する映画館がちらほら。千日前セントラルなどの二流館は比較的開場開演が早かったように記憶している。それでも上映は早いところで十一時からだから、時間を潰すため市電を本町、あるいは長堀橋あたりで降りて心斎橋をぶらぶらしたり、本が高く売れた場合は、当時まだ闇市場の雰囲気が濃厚だった商店街でうまそうなものを買ったりした。主として惣菜《そうざい》を買い、弁当といっしょに映画館の中で食べたのだが、これは母親の作ってくれる弁当がまずかったのと、肉類などに餓えていたからである。父は公吏だから薄給で、そのころ食べものの値段は驚くほど高く、食べざかりの男の子がぼくを頭に四人もいた。ろくなものを食べさせてもらってはいなかったのだ。  さて、十時半開場、などといえばがら空きの館内を連想されるかもしれないが、当時は職のないやつ、身分不安定なやつ、時間観念のルーズなやつ、身の置きどころのないやつ、娯楽に餓えたやつ、さらにぼくのような不良少年または浮浪児などいっぱいいて、第一回目の上映からすでにぎっしり、あの様子ではきっとどこの館でも最終回など超満員だったに違いない。したがってがら空きの館内で映画を見た記憶はほとんどない。「モロッコ」もほぼ満員の館内で見た。映画館主にとっては黄金時代だったのではないかと思う。二本立て上映が流行《はや》り出したのはもっとずっとあとで、昭和六年の封切当時は二本立てのうちの一本だった「モロッコ」も千日前セントラルでは単独で上映され、それで結構客が入っていた。  キネ旬の昭和六年二月一日号の近着映画紹介欄では「モロッコ」をこう解説している。 「独逸《ドイツ》に赴いて『嘆きの天使』を作つたジョセフ・フォン・スターンバーグ氏が滞欧一ケ年の後、再び帰米して監督に当つた映画。ベノ・ヴィグニイ氏原作の舞台劇『エーミー・ジョリイ」より『女の一生』『非常線』『|紐 育《ニユーヨーク》の波止場』のジュールス・ファースマン氏が改作脚色し『煩悩』『彼の捕へし女』のリー・ガームス氏が撮影した。主なる出演者は『嘆きの天使』のマルレーネ・ディートリッヒ嬢、『掠奪者』『テキサス無宿』のゲイリイ・クーパー氏、『虎御前』『コンサート』のアドルフ・マンジュウ氏、『快走王』『危険なる楽園』のフランシス・マクドナルド氏、『鉄仮面』『グリーン家の惨劇』のウルリッヒ・ハウプト氏、ジュリエット・コンプトン嬢、アルバート・コンティ氏、イーヴ・サザーン嬢等で、パ社は本誌の田村幸彦氏を紐育に招きその翻訳になる邦文字幕を最初の試みとして此の映画に挿入してゐる」  スタンバーグがドイツのウファ社に招かれて撮った「嘆きの天使」は名優エミール・ヤニングスの主演だったが、この時スタンバーグは女主人公を演じたディトリッヒという新人女優にすっかり惚《ほ》れこんでしまい、ドイツ人とは思えぬほど達者に英語を話すので、アメリカにつれて帰り、パラマウントと契約させた。その第一回作品がこの「モロッコ」だった。こののちスタンバーグはやはりディトリッヒ主演で「間諜X27」「上海特急」と、ぶっ続けに撮ることになる。  ディトリッヒ・ファン、といってもたいていの人はもう五十歳を越していらっしゃることと思う。その人たちにはまことに申しわけないのだが、ぼくはこの女優をどうしても好きになれなかった。顔がある種のサルに似ているように思えたし、当時のぼくの級友でディトリッヒそっくりの、鼻がちんまりして頬骨《ほおぼね》の張った顔をした男の生徒がいたせいもあるだろう。脚線美といったって、あの程度の足はざらにあったのではなかったか。足むき出しの唄《うた》い手の衣裳《いしよう》だったからことさら観客の眼が足に行き、喧伝《けんでん》されたのではないだろうか。ごめんなさい。今でもこの気持に変りはないのです。  ひとつには映画が退屈だったということもあろう。期待していた戦闘シーンはわずか一カ所だけだったし、当時ぼくにとってメロドラマは男と女がスクリーンの上を朦朧《もうろう》と動きまわるだけの退屈なものでしかなかったのだ。今でもほとんどのメロドラマは、ぼくにとってそうなのだ。なぜディトリッヒがあれだけファンを獲得したのかさっぱりわからぬというのが正直な感想である。封切当時キネ旬の同人だった古川緑波など、その後しきりとディトリッヒ、ディトリッヒと連発しているし、前記の田村幸彦氏も彼女のアメリカでの評判をこう書いている。 「マルレーヌ・ディートリッヒはこの映画によつて米国批評家賞讃の的になつた。或るものはグレタ・ガルボよりも偉大であると激賞し、あるものは亡きジーン・イーグルの再来であると絶讃した。それは兎も角として、彼女の演技及び性格は、最近現れたあらゆる女優の何《いず》れとも比較し得ない程の異色あるもので、全米映画界の興味は、目下此の一女性に集中されて居ると云つても過言ではない」  異色の個性であるという点ではぼくにも異存はない。  ではこの映画がまったく面白くなかったかといえば、やはり感銘があった、としか言いようがない。退屈でありながら感銘があったというのはどういうことかというと、早く言えば「終り良ければすべて良し」であって、ディトリッヒが靴を脱ぎ捨てて軍隊を追い沙漠を歩いていくあの終りかたに圧倒されてしまったのだ。悲劇的なのかハッピー・エンドなのかよくわからないあの有名なラストシーンをぼくは向こう見ずで乱暴で滅茶苦茶だと感じ、早くも身につけはじめていた世間的常識をひっくり返され、それ故に感激したのである。今振り返って考えてみると「モロッコ」によってぼくはエンターテインメントの骨法のひとつを学んだということになる。  もうひとつは例の唯一の戦闘場面。派手な戦争こそやらぬものの、すぐ眼の前で敵の銃弾を受けて死んで行く意地悪だった上官に向かってクーパーが冷笑を浮かべ、あのおどけた二本指の敬礼をやるシーンには参ってしまった。ハードボイルド、という言葉こそまだ知らなかったが、この時ぼくは心からクーパーの冷たさを恰好良いと思い、以後彼のファンになった。この時の記憶があるため、以後ぼくはいかにクーパー大根説を唱える批評にも耳を貸さなかったのである。クーパーの出世作であり代表作にもなったこの「モロッコ」で彼を最初に見たればこそであろう。つくづく、大スターになるためには男女両性から好かれねばならないのだなあ、などと思う。  封切当時、飯島正氏はキネ旬でこう批評している。 「ヨゼフ・フォン・スタアンバアグは、トオキイ映画としては、今迄に『サンダアボルト』一篇しか発表してゐない。(中略)彼は、トオキイ映画に於ける音声の要素を熱心に研究した。そしてそれは『サンダアボルト』に充分に現れてはゐたのである。だが、彼は──彼のみではないすべてのその当時の映画監督者がさうであつたのであるが──この新しく得た映画的要素を過度に重大視した。それがために、『サンダアボルト』は、ひどく片ちんばな作品であつたのだ。(中略)『モロッコ』は、今日迄のトオキイが生んだ最大の傑作である。(中略)トオキイの効果はすべて彼によつて映画表現の利器となつた。しかもその効果はトオキイ的に誇張されてなどはゐない。ひろく一般的に云つて映画的表現に包含されてゐるのである。(中略)スタアンバアグが無声映画に行つてゐた場面転換を極度に緊張せしむる省略法は、このトオキイ映画にも実行されてゐる。そして、この題材が熱帯的に熱つぽいものであるにもかゝはらず、常に芸術的の冷やかな高貴さを持つてゐるのは、この省略法の残酷さの故でなければならぬ」 「モロッコ」はヒットすべきいろいろな要素を持っていたようだ。トーキーとしての初めての成功、ディトリッヒのお目見得、クーパーの演技、ラストシーン、そして日本で初めてのスーパーインポーズ。キネ旬が行った昭和六年度の優秀映画読者投票では二位の「巴里の屋根の下」の三百七十八票を七百八十票もひきはなし、千百五十八票で堂堂第一位になっている。三位以下は次の通りである。 「市街」三百十三票 「ル・ミリオン」百八十九票 「間諜X27」百六十三票 「全線」百五十六票 「悪魔スヴェンガリ」百十票 「最後の中隊」九十九票 「陽気な中尉さん」九十五票 「アメリカの悲劇」九十三票  因《ちなみ》に、この年度の日本映画の方は、日本初のトーキー「マダムと女房」が七百票で一位だった。 [#改ページ]  「キング・コング」 「キング・コング」を見たのがいつであったか、はっきりしない。高校時代ではなかったか、と思う。戦後大阪で最初にリバイバル上映されたのがいつだったかを調べればいいわけだが資料がないのだ。ただ、中学生時代でなかったことは確かだ。もし中学生時代に見ていたのなら当然印象が強烈だった筈だからどこの映画館で見たかというところまで記憶しているに違いないのだ。誰でもそうなのかもしれないが、どうも映画に関してぼくの記憶はあとで見たものほど早く薄らいで行くようで、老化かなどと思い、気が気でない。この「映画史」を書き出したのも、早く書かないと忘れてしまうぞという気持にせき立てられたからでもある。  RKOラジオ映画「キング・コング」が製作されたのは昭和八年で、日本では同年九月に封切られている。スタッフ、キャストの紹介を兼ねて「キネマ旬報」七月二十一日号の解説を引用しよう。 「『地上』『チャング』の共作者たるメリアン・C・クーパーとアーネスト・B・シュトザックがRKOに於いて再び共働して監督した映画で、故エドガー・ウォーレスとクーパーが樹《た》てた原案により、『爆笑隊従軍記』のジェームス・アシュモア・クリールマンがルース・ローズと供同して脚本を製作した。出演俳優は『大飛行船』『国際盗賊ホテル』のフェイ・レイ、『千万|弗《ドル》の醜聞』『米国撃滅艦隊』のロバート・アームストロング、新人ブルース・カボットの三人が主なるもので、フランク・ライチャー、サム・ハーディー、ノーブル・ジョンソン等が助演してゐる。撮影はエディー・リンデン、ヴァーノン・ウォーカー、J・O・テイラーが受け持つてゐる」  配役序列《ビリング》トップの女優フェイ・レイは、無声映画時代から活躍していていつもキャストの二番目か三番目に主人公の恋人役として名を連ねていた助演女優である。トップになったのはおそらくこの映画が最初だろう。しかし、だから主役だとは言えないわけで、キネ旬では村上久雄氏にこう書かれている。「俳優では冗談でなくキング・コングがよし作物であらうとも第一に主役であり、第一の妙技を示してゐる。之に続いては前世紀の巨獣達を、更に之に続いてフェイ・レイ、ブルース・キャボットを挙げ得られよう」  実際このフェイ・レイという女優、とりたてて特徴のない印象不鮮明な顔立ちの女優であって、さほど美人でもない。それでもこの映画ではその姿態のみずみずしさ故かやたら美人に見えたことをぼくは憶えている。丸ぽちゃで小柄に見えたから尚さらぼくの気に入ったのかもしれない。この映画では金髪に変装していたというが、なにぶんこの映画でしか彼女を知らないし、他の映画を見ていたとしてもどうせこの時代カラーではないのだから、彼女の本当の髪が黒いか赤いかは知ることができなかっただろう。ストーリイはもうご存じだろうから書かないが、彼女がいちばん魅力的に見えてしかも煽情的《せんじようてき》な場面は言うまでもなくキング・コングにさらわれた彼女が髪振り乱し肌もあらわになって悲鳴をあげ続け時には失神したりもする例のシーンである。実際このシーンははなはだエロチックであって、どうやら彼女に惚れてしまったらしくしげしげと眺め続けるキング・コングの手の中で、のけぞり、かぶりを振り、叫ぶだけの彼女の演技がこれほど観客の想像力を刺戟《しげき》するとは監督や製作者たちも計算していなかっただろう。またそのシーンはずいぶん長く、何度もくり返され、清水千代太氏も当時のキネ旬に「彼女はコングに掴まれて以来第十一巻目の終りまで、殆《ほとん》ど休まないで悲鳴を挙げ続けるのである」と書いてある。  キング・コングにさらわれたフェイ・レイを追って活躍する二枚目がブルース・キャボットで、本来のストーリイ展開上は主役なのであるが気の毒なことに撮影隊長役のロバート・アームストロングと共にまったくの狂言まわしに終っている。せっかく抜擢《ばつてき》されての初出演というのにぱっとせず、その後の俳優生活でもついにぱっとしたこと一度もなしの助演者に終ってしまった。この人はこれ以後喜劇や西部劇の悪役として多くの映画に出るが、いわばハンフリー・ボガートとチャールトン・ヘストンを足して三《ヽ》で割った感じで、つまり悪役としても活劇俳優としてもアク不足のままで終始してしまったようだ。ボガートが売り出してからは意識的に彼の演技を模倣《もほう》していたようだが実際はキャボットの方がボガートよりもずっと早く、この「キング・コング」で売り出していたのだ。 (画像省略)  このころはちょうどジョニー・ワイズミュラー第一回主演の「類人猿ターザン」が評判になった直後で、他にもウォルター・ヒューストンの「情炎のコンゴ」だの、バスター・クラブ(オリンピック水泳四〇〇メートル自由形優勝者)の「密林の王者」だのといった秘境猟奇映画、その他「マルガ」だの「ゲンボ」だの「コンゴリラ」だの実写の猛獣映画が大当りをとっていたので、「キング・コング」も入荷前からずいぶん前評判が高かった。宣伝が凄《すご》かったことも大当りのひとつの理由であったろう。夏になると鎌倉の由比ヶ浜の海岸には高さ十四メートルもある張りぼてのキング・コングが作られ、これは鎌倉の大仏(十・六メートル)より大きく、夜は目玉と口に電灯が入ってその怪異な姿をさらにグロテスクにし、鎌倉名物などと騒がれたそうだ。試写を見に行ったキネ旬の津田氏が七月二十一日号の編輯《へんしゆう》後記に「久し振りで『キング・コング』と云ふ物凄いのを見た。理屈はともかく、これはまたワンサと儲かり相な代物だ。結局儲かる写真が勝らしい」と書いている。  あまりにも儲かりそうな映画であったが為に、フィルムをめぐって係争事件まで起っている。当時から係争常なき映画興行界ではあったが、いささか大事件だった為に「キング・コング騒動」とまで言われた。だいぶややこしい事件なので簡単に書くのは難しいが、あちこちの記事を調べて概説してみよう。  事件の発端はその年の春ごろに遡《さかのぼ》る。  当時RKO映画の日本での配給権は神戸に本社のある千鳥興業が持っていて、前記の猛獣映画「マルガ」などの大当りによって大いに利益をあげていた。ここの支社ともいうべき東京営業所の所長が河合昇で、ここを通じて松竹系のチェーンに流した「マルガ」の歩合金をこの河合昇が手許《てもと》に押さえ、本社に送金しなかった。なぜかというと、約束通り利益の四分の一をすぐ支払えという河合昇と、決算期になるまで払う必要はないと主張していた本社との話しあいが決裂したからである。  これでかんかんに怒ったのが本社社長の戸田秀雄。五月十八日に突如上京してきて、東京事務所を閉鎖し、河合昇を解雇すると宣言した。河合昇はむろん聞く耳持たない。そこで翌日十九日、戸田社長は今度は数人の人夫をひきつれてふたたび事務所にあらわれ、無理やり机や書類を運び出そうとした。そうはさせじと机にしがみつく河合昇。これをひきはなそうとする戸田社長。ドタバタの末はえんえんと大口論になり、ついに両方とも弁護士を立てて争うことになった。  ここまでならどこにでもある本社と支社との争いに過ぎないが、問題はすでに河合昇が「キング・コング」上映について日活洋画チェーンと調印ずみだったことだ。これを認めぬ戸田社長、自分は「キング・コング」の上映契約を松竹資本のSYチェーンと取り交わしてしまった。これでどういうことになったかというと、ひとつの映画のプリントをふたつの会社が所有しているため、二つの系統がこれを封切りしようというややこしいことになり、興行会社内部の抗争が日活対松竹の戦いにまでエスカレートしてしまったのである。それぞれが負けじと暗中飛躍、業界裏面に札束と羊羹《ようかん》が乱れとんだ。どの会社もそれぞれすでに宣伝に金を注ぎこんでいる。負けてはいられない。上映さえすれば大当り間違いなしの映画であることは、どの批評家も保証しているのだ。試写を見た清水千代太氏もこう絶讃している。 「身長五十|呎《フイート》の大ゴリラなんてものが有るもんか、と始めは観客は笑ふ。笑ひながら、何《ど》うして撮影したか、と審《いぶ》かるであらう。笑ひ且つ審かつてゐるうちに、観客は、いつか此の映画の突拍子もない雰囲気に、馴れて、引摺り込まれて、やがて手に汗を握る思ひをするに至る、に違ひない。(中略)これが此の映画の強味である。此の大スペクタクル映画の勝利である」  特撮技術はどうであったか。現代の特撮ものと比較して遜色《そんしよく》はない。むしろ最近の、人間が中に入った縫いぐるみ怪獣など、ぼくは特撮とは言えないような気がする。特撮技術担当はこの映画以前に「ロスト・ワールド」を撮った経験のあるウィリス・H・オブライエンである。実際、特撮技術のほとんどは、アニメーション技術と並んでこのころすでに完成の域に近づいていたのではなかっただろうか。「或部分に、機械的な動作が目立つが」と清水氏は書いている。しかしぼくにとって安易に撮影された縫いぐるみ怪獣の擬人的に滑らかな動作よりも、はっきり特撮とわかる機械的にぎくしゃくした動作の方がいかに好ましいことか。  また清水氏は「そのうちコングが恐龍と大格闘を演ずるシーンは、音響効果と相まつて素晴らしいスペクタクルである。コングはなほ大蛇と、翼手龍とを、征伐する。これ等の大動物争闘シーンにはアンが姿を見せ、映画はそのトリックの巧妙を誇つてゐる」と書いている。合成のみごとさを褒《ほ》めているわけである。「要するにトリックの勝利、であることは、トーキー漫画と其の軌を同じうするものである。勿論、この映画の価値は、その映画技術の成功、といふ点にのみ存する。であるから、此の映画の功績はウィリス・オブライエンのみに帰するものと言ふべきであらう。(中略)とにかく、一度は見るべき超怪奇のスペクタクル映画である」清水氏としてはたいへんな褒めかたである。  村上久雄氏もこう書いている。「(略)カロル・クラークのセットも亦《また》よく魔島の感じを出して悪くなかつた。(中略)尚、最も面白い部分は矢張、コングがアンをさらつてから、デントム達がコングを捕獲する迄であると言へよう。とにかくかうした題材を映画化しようと試みたそのオリヂナル・プランを建てたメリアン・C・クーパーの商才には全く驚嘆すべき物があると言へよう。奇想天外な企画──誰が今迄にエンパイヤ・ステート・ビルの屋上に立つ大ゴリラが飛行機を手玉にとる等と言ふ場面を空想し得たか──、此の企画が立てられた時に既に此の映画の成功の半はあり、更にテクニカル・スタッフにウィリス・オブライエンを得た時に、残りの成功の半は確信せられた」  そして末尾の興行価値欄にはこう書いている。「興行価値──絶大。有史以前の怪獣達が横行する魔界の髑髏《どくろ》島を背景として五十|呎《フイート》、七百人力と言はれるキング・コングなる大ゴリラが撮影隊中の美女アンをさらつてからの奇々怪々の物語は全く、大人と言はず子供と言はず全ての人の心を奪ふ物を持つてゐる。而《しか》も此の映画には恋あり、争闘あり、怪奇あり、戦慄《せんりつ》あり、と言つた工合であらゆる興味の要素を持つてゐる。前世紀の怪物達のトリックも妙を極めてゐるし、之は観客の全てに満足を与へ得る映画と言ふも過言ではあるまい。大宣伝をしてロング・ランを打つに相応《ふさ》はしき映画」  いよいよ九月になり、洋画興行界独占の野望に燃えていたSYチェーンは機先を制する意味から、すでに日活洋画チェーンの瓦解《がかい》を見ていた大阪で九月の第一週から歌舞伎座へ「キング・コング」をかけた。その盛況ぶり、写真をご覧いただきたい。記録によると初日第一回の十一時開場全各等満員。映画五回レビュー四回のフル回転で一日一万三千円をあげ、三日の日曜は一万五千円、初日から三日間で合計三万八千円という、興行界|未曾有《みぞう》の成績をあげた。  大阪の方はそれですんだものの問題はSY系、日活系が激しくぶつかりあう東京である。両社とも九月第三週から一斉封切の予定で宣伝していたところへもってきて、九月六日、戸田社長と河合昇の間に突然和解が成立、戸田社長は河合昇に金一封(一万八千円だったという)を提供し、河合昇は「キング・コング」のプリントを戸田社長に返却するということで示談になってしまった。泡を食ったのは河合昇と契約していた日活系。プリントがなくては上映できないから、ついにSY、千鳥興業、河合昇の三者を相手どって文書|毀棄《きき》、詐欺横領、背任の告訴状を丸の内署に提出、とうとう刑事問題になり、騒ぎが大きくなった。  この騒ぎ、示談で和解するまでに封切日の九月十四日が来てしまい、日活系四館は泣く泣く「キング・コング」をあきらめ、上映中止の看板をあげた。ただし東京では関西ほどの大入りはなく、「関東関西の観客種の相違、六館同時封切の誤謬《ごびゆう》」とキネ旬では分析しているが、それでも初日で浅草大勝館では四千五百円、帝劇三千円といった具合に、他の映画の上映館などをはるかにひきはなし、何週も連続上映して成績をあげている。  たとえばSF映画の洋画大作が来ればさっそくこれにあやかろうとしてちゃちな宇宙ものを作ろうとする、そういった日本映画界の体質はどうやら昔からのものらしい。この「キング・コング」ブームに便乗しなくてはとばかり、日本でもキング・コング映画の撮影をはじめた。題して「和製キング・コング」。監督はアチャラカ喜劇の早撮りで有名な寅さんこと斎藤寅次郎。「あわて者の熊さん」という映画を九月十二日に撮り終るなりすぐに会社(松竹蒲田)の命令で撮りにかかり、いったい何日で完成させたのか十月第二週に間にあわせ、四週めに突入した本家「キング・コング」にぶつけている。これが無声映画ながら結構笑わせる佳作だったというから、さすがは寅さんである。いったいどんな映画だったのか、ちょっと略筋を見てみよう。  失業中の幸一(山口勇)は、お光(小泉泰子)と恋人同士。ところがお光の父は幸一に金がないので二人の仲を裂く。幸一は何か金儲けの方法はないかと歩きまわるうち「キング・コング」という映画が大当りをとっているので、ある興行師に和製キング・コングとして自分を売り込む。この見世物がまた大当り。ところがある日、見物の中にお光が、父から無理やり押しつけられた男と一緒にいるのを見てたまらず、幸一はキング・コングの扮装のまま二人を追いまわす。そこでキング・コング退治の大騒ぎとなる。  このころ、寅さん喜劇には、征伐となると必ず青年団とか、鎧《よろい》かぶとに身をかためて弓矢を持った武士とかが出てきたそうだが、この映画にもやはりそれが出てきて笑わせ、ついにキング・コングの幸一は二人を追いつめ、恋敵《こいがたき》の男をキング・コングに仕立てあげて縛ってしまう。そこへ興行師から儲かった金が届けられ、幸一とお光は喜ぶ。めでたしめでたし。  なんのことはない縫いぐるみのキング・コングであって他愛のない話なのだが、北川冬彦氏はこれをキネ旬で褒めている。「ドタバタのナンセンスであるが、どうも不思議に現実性のあるのはヲカシイ。こゝが、斎藤寅次郎のエラサだ。最初の、五十銭銀貨一枚のために河べり(或は海べり)をカイボリするへん、こんなナンセンスはないのだが、それでゐて、さうバカバカしくないのは不思議なことだ。また、人間一匹が、キングコングの姿をしたとて、あんなに強くなるのもゲセナイことだがやはり馬鹿々々しくない。(中略)構成がぬきさしならずなされてゐるのは伏見晃の手柄なのだらう」  伏見晃は原作・脚色をした人。他に出演者は関口小太郎、山田長正、坂本武。三巻の短篇である。一度見たいような気もする。  この「和製キング・コング」にヒントを得て、まだ「和製キング・コング」が完成していないうちに、もうひとつのあやかりものが出た。高木新平の連続時代映画「怪傑荒法師」に猩猩《しようじよう》が登場する。そこで浅草千代田館ではこれに「和製キング・コング」という頭註をつけ、しかも表看板には本タイトルよりも大きく、まるでそれが題名であるかのように書いて、本家「キング・コング」の二週めにぶつけた。なんとこれが大当り、正月以来の好況となって二週続映に入ったという。ひどい話もあったものだが、キネ旬ではこの現象を「骨董と際物《きわもの》の当る興行の不思議」と書いている。  むろん本国アメリカでもこの翌年、キング・コングの息子の登場する映画が製作された。「コングの復讐」である。やはり「キング・コング」の方が面白かったそうだ。  さて、こうしたキング・コング騒ぎ、いずれもぼくがまだ生まれていない四十五年も昔の話であるが、まったく今とたいした変りはないようだ。 [#改ページ]  「鯉名の銀平」  戦後再上映された「鯉名の銀平」を、ぼくは天五中崎通商店街の大阪座で見ている。「ロイドの巨人征服」を見たあの旭座の左隣りの映画館で、ここではずっと松竹系の映画を上映していた。前にも書いたが松竹系の映画はメロドラマが多いのでほとんど見なかった。しかしこの「鯉名の銀平」は時代劇なので当然チャンバラがある筈と思い、それだけを期待して見たのだ。 「鯉名の銀平」のスタッフ、キャストは次の通りである。  製作・配給 松竹キネマ(京都)  原作 長谷川伸・「雪の渡り鳥」より  脚色・監督 衣笠貞之助  撮影 杉山公平  録音 土橋武夫      ●  鯉名の銀平 林長二郎  爪木の卯之吉 高田浩吉  お市・お市によく似た品川の女 飯塚敏子  お市の親五兵衛 志賀靖郎  大鍋の島太郎 山本薫  帆立の丑松 坪井哲  猪の権太 沢井三郎  黒目の又五郎 小林重四郎  岩角の多治郎 山路義人  そば屋の亭主 永井柳太郎  製作は昭和八年、まだ無声映画や短尺物が多かった当時としては大作の、オール・トーキー全九巻で、今配役を見てもずいぶんいい俳優が出演している。  映画館の前でスチール写真を見た時、あれえ、なんだこれは、林長二郎って長谷川一夫のことだったのか、などと驚いた憶えがある。この前後「伊那の勘太郎」だの「或る夜の殿様」だの東宝映画に出演している彼を見ていたが、それらにはすべて長谷川一夫の名で出演していたからである。プリントが綺麗だったので「鯉名の銀平」がそんなに古い映画だとは当時思わず、もしかすると長谷川一夫、松竹映画に出演する時だけは林長二郎の名を使うのかもしれない、などと想像し、勝手に納得したりしていた。無論これは間違いで、のちに長谷川一夫と改名したのだ。 (画像省略)  変な話になるがぼくの家には戦前発行されたA4判の、おそらくは雑誌の附録だったのだろうと思える俳優名鑑があり、そこには雪之丞に扮した林長二郎の写真もカラーで大きく載っていて、小学校六年生頃のぼくはこれを本ものの女性と思いこみ、オナニーのあてがきに利用していた。写真の下の解説中の「林長二郎」という活字を見逃していたのである。あとで男だと気づき、道理でどこかで見た顔だと思った、などと内心舌打ちしたものだが、その頃はまだ性的対象が幼児期性欲段階からあまり進歩していず男女未分化の状態だったため、男性の写真をオナニーに使用してしまったとわかってもさほどのショックではなく、罪悪感も抱かなかった。若い頃の林長二郎の雪之丞がいかに綺麗であったかをご存じのかたならさほど不思議に思われることもない筈だ。  変な話になりついでにさらに脇道《わきみち》にそれ、性の告白をする。ぼくがオナニーを覚えたのは小学校四年生の時である。小学校というのは当時の千里第二国民学校で、ここの校庭の片隅に「竹のぼり」があり、高さ約三メートルの青竹が木枠を組まれた中に数十本立っていた。身軽だったぼくはこの竹のぼりが得意であって「竹のぼり競争」などではあっという間に上までよじのぼり、そのスピードが自慢だった。ある日の休憩時間中、この竹のぼりをひとり上までのぼりつめ、足を動かすごとに股間《こかん》が竹にすれる時の感覚の異様なほどの快美感についうっとりとなり遠くの山なみなど見つめながらその動作をくり返すうち、だしぬけに全身を快感が走り、危く地上まで落下しそうになった。これがオナニー初体験である。子供のことだから射精こそしなかったものの、その焼けつくような快感たるや現在のそれとは比較にならぬほど激烈なものだった。  その時何を考えていたかはっきりした記憶がない。むろん女性のことではなかった筈だ。当時ある雑誌の絵物語で若い武士だか少年剣士だかが切腹している場面に強い性的な興奮を覚えたことがあったから、そのことを思い出していたのかもしれない。四、五歳くらいの幼児のオナニーはいったんおさまるものだが、ぼくの場合はそれ以来とぎれることなくオナニーが続いている。最初のうちは相変らず竹のぼりでやっていたのだが、友人の眼を惹《ひ》くおそれがあるし何よりも墜落の危険が大きい。そのうち自分の部屋でこっそりやるようになり、それ以後の次第に手法《ヽヽ》が洗練されていく過程は他の大多数青年と似たり寄ったりなので省略する。  さて、ちゃんばらを見る為に「鯉名の銀平」上映中の大阪座へ入ったぼくの期待はみごとに裏切られた。なんと観客は近所の商店の人たちと思われる中年のおばはんやお婆さんが圧倒的大多数。どうみてもちゃんばら好き人種とは思えない。会話を盗み聞いているとしきりに「長さんは」「長さんは」と言っている。それまでは「長さん」という言いかたを耳にしてはいたものの長谷川の長であろうとばかり思っていて、この時はじめて長二郎の長であることがわかったのだ。つまり今考えてみるとその観客たち、林長二郎時代からの古いファンであり、昔の映画を懐しんで見に来ていたということになる。悪い予感通り、映画はぼくの大嫌いなメロドラマであった。むろんちゃんばらもあるにはあったが見せ場ではなく、お座なりのものだ。 「鯉名の銀平」は最近新国劇などで「雪の渡り鳥」として上演されたりしているから、およそのストーリイはご存じであろうが、設定だけを簡単に紹介すると次のようになる。  下田港の親分、大鍋の島太郎の子分で爪木の卯之吉と鯉名の銀平の二人は、駄菓子屋五兵衛の娘お市に恋していた。五兵衛はお市が銀平を恋しているとは知らず、卯之吉に娘をやろうと約束してしまう。卯之吉は銀平の兄貴分だが腕は銀平に劣った。  ある日|喧嘩《でいり》があり、銀平はみごとな働きを見せるが、そのさなか、卯之吉とお市の婚約を知って心暗く、一時は卯之吉を斬《き》ろうかという邪念を起す。だがお市の為を思い、逆に斬られそうになっていた卯之吉を助け、そのまま下田を去る。そして数年。  むろん定石通り銀平は下田に帰ってくるわけである。そこで見たものは何であったか、というところまでが前半。  林長二郎の股旅《またたび》姿は「伊那の勘太郎」同様この上ない恰好よさであった。この人ほど|むしり《ヽヽヽ》や縞《しま》の合羽《かつぱ》が似合う俳優は他にいなかったのではあるまいか。現在の股旅ものの主人公の如く汚い扮装はしていない。白塗りであり、着物だって終始糊がきいてさっぱりしたものを着ている。どうせフィクションなのだからそれでいいのではないかとぼくは思う。今の股旅ものの主人公は、あれは乞食《こじき》である。いくら史実によるものだとか、実際に乞食のようなものであったかと言ったって、あそこまでぼろぼろにしてしまうのはいくら何でも誇張のしすぎだ。現代のヒッピー風俗と重ねあわせたつもりかもしれないが、やくざというのはヒッピーではなく現代でいうならやっぱり暴力団のちんぴらに近いわけだから、いくら金がなくてもちんぴら達同様ちっとはいい恰好をしようと努めたのではあるまいか。だいいちあれでは画面から臭気がにおってきて見る気がしない。  飯塚敏子も可愛らしかった。当時のぼくにはずいぶん美人に見えたし、何よりも下町風で親しみのあるところがよかった。現在のぼくにとっても時代劇の娘役としては飯塚敏子が原型としてのイメージを持っている。二役をやっているが、もうひとつの、銀平が旅さきで出会う品川の女の方は記憶にない。  この二人、キネ旬では北川冬彦氏にこう評されている。 「長二郎は、熱心にやつてゐる。さう云ふより他に言葉はない。飯塚敏子は、二役なので、どうも印象が乱れた。これは監督の責任だ。トーキーに於いて二役と云ふものはどうかと思ふ。メイキャップで顔や姿はどうでもかへられるが、声と云ふものは仲々かへられないのだ。お市と品川の女と似てゐるとしても、あんなに似てゐては、困る」  今ならあたり前として看過されるようなところにまでけちをつけている。この他にも「高田浩吉の声は割合ひによく聞えた」など、トーキーの初期のせいか北川氏、音声にひどく気をつかっている。エロキューションの悪さでは定評のある長谷川一夫に比べて、唄のうまい高田浩吉の声がよく聞こえるのはあたり前である。むろん長谷川一夫の声はそれが魅力でもあり、だからこそ声色《こわいろ》によく使われているわけだが。  映画の出来がどうであったのかは、当時のぼくには判断できなかった。もっとも、同じ頃に見た「沓掛時次郎」は、「鯉名の銀平」同様の悲恋ものでありながらぼくの心に強烈な悲哀を感じさせているから、やはりたいしたものではなかったのかもしれない。北川氏の評もひどく悪い。 「やくざの生活に材をとり、一人の腕利きの男即ち鯉名の銀平の恋──悲恋を扱つたものだが、どうもマンネリズムで感心しない。マンネリズムで感心しないと云ふのは、原作もさることながら衣笠貞之助の監督ぶりも然りなのである。衣笠貞之助のよさは、いまゝで彼を私は買つてきたが、その所以《ゆえん》は彼の『野心』であつた。彼の野心とは、或は不純なものを契機としてゐたかもしれぬが、少くとも、何らかの新機軸を出さうとする芸術的野心を見逃すことは出来なかつた。が、もうこゝには芸術的野心どころか、芸術への情熱さへ甚だ稀薄である」  ここでまた北川氏は音声にこだわりはじめる。「音画」などという新語まで造っているが、これは「音声入り映画」という意味であろう。 「この作には、叫と騒音に満ちてゐる。音画とはそんなものに充満さるべきものなりや。物のコハレた音そんなものはむしろ、映画の背後に押しやるべきものだ。音画として、多少とも心を使つてゐるところとして、一つは、帆立の一味の敗走のところに、何か波の音とも、リベティングの音ともつかないものを聞かせたところ、も一つは、卯之吉が、銀平に対する妄想をいだくところに何やらへんな音を加へてゐたこと。これらはそんなに成功したとも思はれないがやゝ見る可《べ》きものと、見た。ところどころ思ひ出したやうに波の音が出たが、必然性がなく、唐突の感あり」  監督苦心の効果音も、きわめて不評である。しかし当時のぼくが見た限りではさほど違和感のある音は出てこなかったから、衣笠監督の実験、その後手法として定着し、「唐突の感」がなくなってしまったのかもしれない。何ごとも初期の段階では不評を恐れずいろいろやって見なくてはその効果、わからないものだ。 「構成の点では、銀平、下田を去つてから、品川からまた下田へかへるところの時間経過がただ岸辺の岩にあたる波によつてなされてゐたが、あそこはどうも無理だと思つた。それから、銀平下田上陸の辺は冗漫であるが、それはいゝとして、お市を宿へ呼びよせるのはどうかと思ふ。それによつて、卯之吉の嫉妬、卯之吉の帆立への斬りこみが導き出されるのは如何にも細工の跡が白々しい。銀平が、とつつあん、挨拶はぬきでと出てくるが、これはいよいよ以《も》つてボロを出したものだ」  下田の宿に落ちついた銀平、人に頼んでお市を宿へ呼びよせるわけだが、ここで、いつお市が来るかというので腰がすわらず、立ったりすわったりそわそわする場面がある。長さんがそわそわしているというのでぼくの周囲の観客たち、しきりに面白がって笑っていた。当時の観客、まったく他愛がなかったのであるが、こういう観客をぼくは大好きだった。  お市がやってくる。銀平とお市が宿のひと間で向かいあっている。と、そこへやってきた卯之吉、とんとんとのぼってきた階段の降り口あたりで二人の姿を発見し、立ちどまり、中腰のまま階段の手摺り越しにじっと二人へ嫉妬の眼を向ける。つまり銀平とお市のいる二階の座敷は階段のすぐ傍にあり、座敷の襖《ふすま》は開いているわけで、二人は抱きあったりするどころかただ向きあって座っているだけなのだ。これに嫉妬するというのが当時のぼくには解《げ》せなかった。また、この時の高田浩吉の眼が凄《すご》かった。なるほど嫉妬している男の眼とはこういうものかと感心したが、凄ければ凄いほどいやな感じがした。というのはこのころ、いや今でもそうなのだが、ぼくは嫉妬深い男などは人間の屑《くず》だと思っていたので、一方では主演スターでもある高田浩吉がなぜこんないやな役を、しかもこんなに熱演するのかと思い、不思議でしかたがなかったのだ。  当時のぼくが「一方では主演スターでもある高田浩吉」と思ったのはむろん戦後に作られたあの一連の音楽時代喜劇を念頭に置いてのことである。しかし今、昭和八年のキネ旬を見ると、この「鯉名の銀平」と同時に高田浩吉主演の「雲霞の兇敵」というのが封切られていて、高田浩吉がやはり昔からの主演スターであったことがわかる。ただしこれは無声映画で、巻数も七巻と短く、しかも二流館で封切られているから、もともと大スターではなかったようだ。戦後もたとえば市川右太衛門の旗本退屈男などでは主人公の子分として出演したりしていて、決して大作の主演スターではなかった。「雲霞の兇敵」の批評でも「スターとしては貧弱」と言われている。線が弱かったのであろう。だが「雲霞の兇敵」で演じたのは弱虫の武士で、やくざに身ぐるみ剥《は》がれたりする喜劇的な役柄だから、これはうまく彼の個性にはまっていた筈なのだ。ぼくは明るい喜劇に出演し堺駿二だの伴淳三郎だのに混って結構喜劇的演技もこなす高田浩吉に好感を持っていたから、尚さら「鯉名の銀平」の彼がいやだった。高田浩吉が「大江戸出世小唄」で歌うスターとしての地位を確立するのはこの「鯉名の銀平」の二年後、昭和十年のことである。以後しばらく林長二郎、坂東好太郎と並んで松竹時代劇三羽|烏《がらす》と言われたそうだが、やはり歌うスターとしての軽さによって林長二郎には及ばなかったようだ。  批評がどうであろうと、やはり大作「鯉名の銀平」は封切当時大当りをとっていて、キネ旬ではこう書いている。 「十月第三週のトリ作品として、松竹系各館は当つた。猶次週に続映されて、申分のないロングであつた、ときく。松竹系の時代画で、トリ作品に用ふ可きものはこの画位のものであらう」  この映画を見て少しあとに、ぼくはこの映画とまったく同じスタッフで作られた「沓掛時次郎」を見ている。はからずもこの「沓掛時次郎」は衣笠貞之助が「鯉名の銀平」に次いで作った作品であるということをぼくは今キネ旬で知ったばかりだ。製作は昭和八年、封切は昭和九年一月である。トーキー九巻というのも同じ。主演者も同じ林長二郎と飯塚敏子。助演も志賀靖郎、山本薫、坪井哲、沢井三郎、山路義人、永井柳太郎などが同じで、これに子役太郎吉の小島照子と、新国劇では久松希世子のやったあの宿の女房おろくを演じて飯田蝶子が加わっている。  この映画を見たのは新世界にあった、映画館ばかりの寄り合い世帯みたいな旧NIPPON・CLUBのビルの五階にある日劇会館。戦前からの古い建物で、現在もまだ興行している。ストーリイはご承知の通り。ヒロインおきぬの飯塚敏子は死んでしまうし、孤児になった太郎吉をつれて旅を行く時次郎のうしろ姿のラスト・シーンはあまりにも可哀そうで衝撃的だった。冬だった為か、しんと冷えこむ夕刻の映画館の中で空腹をかかえて見ていたので尚さら暗く感じ、新世界の雑踏に出てからも悲哀感は消えなかった。島田正吾主演の新国劇だと、おきぬの死後もうひと幕あるが、映画ではその部分が省略されていて、ずっと悲劇的になっていた。キネ旬でも鈴木重三郎氏によって「鯉名の銀平」よりいい評価を下されている。  志賀靖郎というのは達者な役者だったらしく、「鯉名の銀平」では「志賀靖郎はいゝ。病気になつてウロウロするところもよろし」と褒められ、「沓掛時次郎」でも「小役小島照子と志賀靖郎と飯田蝶子が相変らず達者なところを見せる」と褒められている。  衣笠貞之助という監督は、自身女形だった経験がある為か、ややなよなよとしたところのある林長二郎の美男ぶりを実にうまく生かした人である。何年も、そして何本も、林長二郎主演映画を撮り続けることによってその魅力を高め、スターとしての気品を作りあげていったのであろう。そしてそれは昭和十年、名作「雪の丞変化」で林長二郎の女形としての魅力が爆発的に開花し、みごとに結実するのだ。 [#改ページ]  シャリアピンの「ドン・キホーテ」  不良少年時代にぼくが徘徊《はいかい》した場所は、第一に千日前附近であり、二番めが梅田の映画街であった。敗戦直後、梅田にあった映画館といえば、北野劇場が占領軍に接収されていたため、実演と映画の梅田劇場、その地下の梅田地下劇場、それに梅田地下劇場の隣り、現在梅田スナック・センターになっている場所にあった梅田小劇場の三館だけであった。やがてこれに加えてOS劇場や、北野劇場の裏の梅田グランドや、御堂筋に面した梅田新道寄りの梅田シネマや、梅田新道キャピトルなどが次つぎに出来、華やかな映画街になっていく。  梅田小劇場はこれらの中でもいちばん小さい、汚れた映画館で、主に戦前の古い映画、それもあまり保存状態がよくなかったと思えるフィルムをそのまま上映していた。この映画館でぼくはシャリアピンの「ドン・キホーテ」を見ている。  梅田劇場のすぐ横にある地下街の入口には梅田地下劇場、梅田小劇場のスチール掲示用ウィンドウがあり、ここにはポスターや上映時間表なども貼付《てんぷ》されていた。中学二年か三年の時だが、このウィンドウの前でスチールを見ていたぼくは一度、刑事に補導されている。例の汚い鞄を肩から下げたスタイルであったし、まだ映画館の開場時間には間があったものの、登校時刻はとっくに過ぎていて、学校をサボっていることはひと目でわかる。うしろから肩を叩かれ、警察手帳らしきものを見せられ、ちょっと来なさいと言われてつれて行かれたところは阪急電車のターミナルの地下にある、乗務員詰所みたいな誰もいない広い部屋であった。  あれは本当に刑事だったのかなあ、と、今になってぼくは考えてしまう。記憶がはっきりしないのだが、あの男がぼくに提示した警察手帳はちっとも警察手帳のようではなく、定期券入れに入った身分証明書みたいなものだったように思うし、すぐ近くに曾根崎警察署がありながらなぜあんなところへぼくをつれて行ったのかよくわからない。特に専用の机でもないらしい食卓みたいな大きな机の隅で彼は調書をとった。住所や学校などを訊ねたあと彼はぼくに「成績は」と聞いた。ぼくはやや誇りを持って「副級長をやっています」と答えた。事実だったのだが、これがこちんときたのであろうか、彼はことばを強くして再度ぼくに「成績は」と訊ね、ぼくはしぶしぶ「中です」と答えたのだが、その後この男がぼくのことを家庭にも学校にも連絡しなかったのはその為だったのかどうかもよくわからないのだ。実はこの男、刑事でもなんでもなく、別の下心があってぼくをそんなところへ連れてきたものの、予想に反しぼくが泣きもわめきもせず平然としているのであきらめて解放してくれたのかもしれない。  副級長をやってはいたものの、学校をサボってばかりいたので当然のことながら当時のぼくの成績は悪かった。クラスの投票でいつも副級長に選ばれていたのは、級友たちに比べて大柄だったし、なんとなく秀才じみた風貌をしている上、特別教室から来た生徒だということを皆が知っていたからだろう。この特別教室のことについてはいずれ詳しく書こう。 「これからでもいいから学校へ行きなさい」と言ってその男はぼくを解放してくれたが、ぼくはその日あいかわらずサボり続け、映画を見て帰った。ずいぶん図太かったようだが、その男が学校に報告しないだろうということを勘で悟ったのかもしれない。 「ドン・キホーテ」に話を戻そう。シャリアピンの名を、ぼくは小さい頃から知っていた。外大でロシア語を専攻した叔父がこのロシアの大歌手のレコードを持っていて、この井ノ口という叔父の家は山坂町一丁目、幼年期のぼくが住んでいた家から数軒離れたところにあり、佳子ちゃんといういくつか歳下の従妹と遊ぶためぼくはいつもこの叔父の家へ行っていたのである。シャリアピンのレコードというのは「ヴォルガの舟唄」で、エイコーラと訳されて歌われるあの部分はロシア語ではエイオフニャであり、したがってぼくはこの叔父のことを「エイオフニャの叔父ちゃん」と呼んでいた。  フィヨードル・イヴァノヴィッチ・シャリアピン。帝政下のロシアに生まれた天才的バス歌手。ロシア民謡でも古今独歩と言われたが演技力も豊かで、ロシア・オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」などは絶品であった等、たいていのことは読者も先刻ご承知であろう。このシャリアピンがなぜフランス映画「ドン・キホーテ」に出演することになったのか、詳しい事情はわからない。一説には「マスネーのドン・キホーテは作らないが自分のドン・キホーテなら作りたい。また、歌よりもむしろ演技を見せたい」というシャリアピンの意志でヴァンドールという会社が作られ、ナチスに追われてフランスに来ていたドイツのG・W・パプストに監督を頼んだのだと言う。また、そもそもそれ以前にシャリアピン、チャップリン、フランスの監督ジャン・ド・リミュルの三人が会った時初めて「ドン・キホーテ」製作の話が出たのだとも言う。主演者がロシア、監督がドイツ、その他がフランス、それに原作者及び舞台がスペインという国際的な映画で、作られたのは昭和八年、日本公開は昭和九年だった。 (画像省略)  キネ旬の解説欄によって、スタッフ、キャストを紹介する。 「世界最大のバス歌手として知られてゐるシャリアピンが主演する映画で『三文オペラ』『炭坑』『熱砂の女王』と同じくG・W・パプストの監督作品である。原作はセルヴァンテスの有名な作物でこれを仏蘭西の文学者ポール・モーランが改作し、アレクサンドル・アルヌーが台詞を執筆した。(略)なほこの映画には仏蘭西楽壇の新人ジャック・イベールが作曲に、『三文オペラ』『最後の中隊』のアンドレーエフが装置に、ロッテ・ライニガーが線画に、それから『嫉妬』のジャン・ドゥ・リミュールが監督に参与してゐる事を書き添へて置く。撮影は『幻の小夜曲』と同じくニコラス・ファルカスの担任」  助演者はサンチョ・パンサに当時の仏蘭西の舞台の人気者ドルヴィル、ドン・キホーテの意中の佳人で実際はただの村娘に過ぎないデュルシネ姫にはルネ・ヴァリエ、ドン・キホーテの姪《めい》マリアには当時新進でのちに「望郷」でジャン・ギャバンの相手役をしたあの美貌のミレーユ・バラン、マリアの恋人カラスコにはドンニオ、公爵夫人には「面影」のアルレット・マルシャル、サンチョの妻にマディ・ベリイといったところ。  映画は暗かった。今でもヨーロッパの映画といえば必ず画面の暗さを思い出すのは、このころに見た欧洲映画の記憶があるからだろう。トーキー初期に作られた古いフランス映画の再上映であることが多かったから、画面が傷だらけで暗く汚いのは当然だが、画面だけではなく、この「ドン・キホーテ」は終始|沈鬱《ちんうつ》なムードに包まれていた。最初ぼくは「ドン・キホーテ」というタイトルから、頭のいかれた滑稽な人物の演じるドタバタを想像していたのだ。むろんシャリアピンの演じる音楽映画であるからいくら何でもアメリカ喜劇映画の如きスラプスティックを期待してはいなかったものの、もう少し明るいおおらかな喜劇だろうと思っていたのである。少くともそれまでにぼくが読んでいた、少年向きにリライトされた「ドン・キホーテ物語」は愉快なユーモア小説だったのだ。ところが豈《あに》はからんやこの映画は悲劇だった。なんと「ドン・キホーテ」は悲劇だったのだ。主人公は最後に死んでしまう。山のようにつみあげられた騎士物語の本が火をつけられて燃えあがり、その炎の中から主人公の歌声が「泣くなサンチョよ」と、悲劇的に響いてくるそんなラスト・シーンでぼくの眼に思わず涙がにじんだのは、必ずしも主人公の運命に同情したり映画そのものによって感動したりしたのではなく、こんなに滅茶苦茶に悲劇的な脚色をされてしまった「ドン・キホーテ物語」が可哀相になってしまったからでもある。これはひどい、と、ぼくは思ったものだ。いったいなんのつもりであの面白い話をこんな面白くないものに変えてしまったのか。いったいこの映画のどこが面白いのか。  一時期、フランス映画といえばぼくは悲劇ばかりだと思っていた。実際にはトーキー初期、「ル・ミリオン」だの「自由を我等に」だの、ルネ・クレールの喜劇映画がこの「ドン・キホーテ」などと前後して日本でも封切られていたのだが、こういったフランス喜劇映画の存在を知ったのは大学生時代になってからだったので、フランス人を日本人以上の悲劇好きと思いこみ、涙浸りのオロオロのふやけ頭揃いに違いないと、長いあいだフランス人を蔑視していたものだ。  ミレーユ・バランの美貌はこの映画では映《は》えていなかった。なにしろこの人の美貌は都会的のそれであって、「望郷」などでは映えるがこの映画のような昔の田舎娘の役には向かない。  ところでこの「ドン・キホーテ」を見た時のぼくの感想が必ずしも的はずれではなかったらしいことを、最近、飯沢匡作・演出の「日本少年ドン・キホーテに会う」を観劇して、ぼくは知った。わが敬愛する飯沢さんの説によればドン・キホーテなる人物は、セルヴァンテスが当時は表だって批判できなかった宗教界を暗に諷刺《ふうし》するため創造した人物だというのである。ぼくの知る限りでもこれは新解釈で、ぼくが文学史で教わったところではドン・キホーテは当時愛読されていた騎士物語へのアンチテーゼとして書かれ、書かれている間に次第に主人公たちの性格描写に熱が入ってきて人間像が確立されてしまったので、とうとう近代文学としての先駆的意義を持たされてしまった、というに過ぎなかったのである。もし飯沢説が正しいとすれば、ドン・キホーテなる役は、役者が、狂信によって頭のいかれた滑稽な爺さんとして演じれば演じるほど原作の意図に近づくわけではないか。  この映画が暗過ぎる、という批評は封切当時もあったわけで、その頃のキネ旬には飯島正、岩崎昶、内田岐三雄、清水千代太の四氏による「ドン・キホーテ」合評が、昔のこまかい活字でキネ旬のあの大きな頁に四段びっしり三頁にわたって載っていて、その中で飯島正氏がそう発言している。だいぶ長くなるが面白いので、話があっちへとび、こっちへとびしているのを整理しながら引用してみよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  飯島 (略)例へば、シャリアピンその者は非常にうまいけれども、ドン・キホーテとしては暗過ぎてやしないかと思ふ。少し深刻のやうな顔付がそれは又それで面白いとは思ふけれども……。(略)僕はあの映画が非常に面白い。さつき言つたやうなこともあるし、映画全体から来る感じがインテリ臭い、昔のスペインの小説、フランスの十七世紀の小説が持つて居るやうなおほまかな味がなくて、蔭を作つたやうな所がちよつと面白いと思ふ。或る上品さ……。  清水 パプストが「三文オペラ」で成功したから作らしたのかね。  飯島 それはどうかね。(略)僕はあの写真を見て居て、一番感じたのは、シャリアピンでもパプストでもない。まづどうしてもドン・キホーテといふものを感じないでは居られなかつた。ドン・キホーテ的な人間を感じた。それは映画よりも何よりも……それは又映画に関係がなくなる惧《おそ》れがあるけれども、併し映画を契機として思ひ出す感じなのだから、映画に関係がないとも言へないが、詰りハムレット型に対するドン・キホーテ型、是は少々センチメンタルになるけれども、何と言つたら宜いか、ああいふやうな人間に付て一種の感慨を持つたよ。  岩崎 僕はその点では疑問といふより反対意見になるけれども、「ドン・キホーテ」といふあの映画を見た場合に、例へば、セルヴァンテスに依つて普及化されたドン・キホーテ型といふ一つの性格がある。其性格があの映画では出て居ない。  飯島 勿論出て居ない。だから契機としてと言つて居る。それは映画とは関係なしに考へたことなのだ。  岩崎 題名を見たゞけで、ポスターを見たゞけでも考へたと言ふのならば……。  飯島 あの映画で風車に打衝《ぶつか》るだらう。その打衝つて行つた行動から考へたのだ。  岩崎 ドン・キホーテといふ題名やポスターから直に感ずるといふ意味なら宜い。僕の言ふのはセルヴァンテスの意味のドン・キホーテ型の性格が出て居ない。又そんなものは描かうとしても居ないと思ふ。パプストはドン・キホーテの行為、「ドン・キホーテ」といふ原作の有《も》つて居る事件と行動だけを映画にして、その根本にある人間的な性格を無視して居るのぢやないかと思ふ。 [#ここで字下げ終わり]  この岩崎、飯島両氏の論争はもう少し続く。なんとなくまどろっこしく感じられるが、座談を未整理のまま収録した為だろう。結局はシャリアピンという、いかにオペラ歌手としての演技力はあっても喜劇的演技などとても出来そうにない人物を主役にしたことが暗い映画になった原因の第一だと思うし、飯島氏の感慨はドン・キホーテの悲劇的側面によるもので、それならばシャリアピンの大時代な演技、悲劇的な歌曲と歌唱によって、当然のことながら充分強調されていた。ただぼく自身、昔も今もそうなのだが「ドン・キホーテ」の悲劇的側面などというものを認める気持はこれっぽっちもなかったのだ。  両氏の議論も、結局は次のようなところへ落ちついている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  飯島 僕が見る前に感じて居たドン・キホーテはもつと呑気か、一番はつきり言ふと、もつと明るいドン・キホーテと思つて居た。  岩崎 シャリアピンがドン・キホーテになつたことが関係して居るね。  飯島 だからそれはシャリアピンがドン・キホーテになつたことで仕方がない。それはシャリアピンの顔から言つてもさうだ。 [#ここで字下げ終わり]  議論が監督や脚本に移ってからも、次のような問答がある。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  清水 飯島君が明るいものを予想したのはポオル・モーランだからぢやないかね。  飯島 さうぢやない。明るいと言つては多少語弊があるが、詰りもつと野蛮──と言つてはこれも語弊があるが、もつとガラを大きく出しても宜いといふのだ。例へばさつきの話、例へが少しうまくないが、囚人やなんかの件はもつと大時代で宜いと思ふ。あゝいふ時の態度が少し神経質に見えるのだ。  岩崎 それなんかは結局パプストといふ人間が非常に近代人でリアリストであるからではないかね。是には異論があると思ふが、僕はパプストは徹底的なリアリストと思ふ。だからあれよりもつと大時代に出来ない。  飯島 それが僕は欲しいな。 [#ここで字下げ終わり]  たとえその暗さに疑問を抱く人はいても、封切当時、悲劇好きの日本の観客に「ドン・キホーテ」は受けた。それはこの映画を配給した東和商事が、これより少し前に封切った「にんじん」の大評判に気をよくし、「にんじん」以上の大宣伝をうったことにもよる。帝劇では「にんじん」以上の満員で三週も続映した。  キネ旬の広告に寄せた各氏の推薦文からふたつばかり抜き書きする。   演劇映画の溶解  今日出海[#「演劇映画の溶解  今日出海」はゴシック体]  演劇の特性が映画に矛盾なく溶解してゐる。稍《やや》大時代な演出であるがファンテズムとレアリズムが此処に巧みに握手した見事な例として僕は推賞する。   音楽ファンへすゝめる 藤山一郎[#「音楽ファンへすゝめる 藤山一郎」はゴシック体]  シャリアピンファンは勿論の事、その他唄の好きな人は誰でも一見(一聞)してほしいと思ひます、──と言ふのはビクターレコードでは一枚四円する彼の唄が数曲この中で、タンノーするまで聞かれますから──とは内証ばなし。  いろいろな見かたがあるものである。  封切が前後したこと、どちらもフランス映画の文芸大作で、どちらも東和商事が宣伝に金をかけて配給したことなどから、「ドン・キホーテ」は当時、ことあるごとに「にんじん」と比較されている。このジュリアン・デュヴィヴィエが監督した「にんじん」も、中学生時代にぼくは見ている。次章でその「にんじん」を、この「ドン・キホーテ」と少し重なりあう形で書いてみよう。 [#改ページ]  「にんじん」  前章の「ドン・キホーテ」で飯沢匡氏の解釈に触れたところ早速、氏からはがきを頂いた。それによればあの映画「反ナチのためユダヤ人が協力して作ったものですから暗くなるのは当然ですね」ということ。「ヒトラーの狂信を皮肉ったのではないでしょうか」とも教えてくださった。自慢ではないがこういった点に関してぼくはまったく鈍感であって政治意識皆無、社会性なき作家などと言われるのもあたり前だ。眼が開いた気になる。どの程度開いたのかもよくわからないが。  それでこそ批評家諸氏の「ドン・キホーテ」合評座談会でも、何しろ情報不足で検閲きびしい当時のこと、そのあたりに触れていない理由が理解できるのだ。パプストの意図がよくわからなかったのだろうし、わかっていても発言できなかったのだろう。さて、この章はその、前章の座談会の続きからはじめることにする。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  岩崎 (略)一体今まで「ドン・キホーテ」に付て文句を言つて来たけれどもそれは要求のレベルが高過ぎる。我々は普通の映画に対して注文しないことを注文して居る。それはこの映画のスタッフ、この映画に対する尊敬のしからしむるものだ。(略)  内田 他の凡百《ぼんぴやく》の映画に対する悪口とは少し意味が違ふ訳だ。  岩崎 (略)さういふ前提を置いて、こつちが映画の足場に立つて、普通ものを言つて居るやうな、さういふ立場からものを言へば、この映画はいいものと思ふ。或る人などは「にんじん」よりいいと言つて居つたよ(笑声起る)「にんじん」よりいいといふことは異論があるが、さう言つて非常に推称して居る人がある。さうして「にんじん」は判らないと言つて居る。  飯島 「にんじん」が判らないといふことにはいろいろ例がある。 [#ここで字下げ終わり]  なぜ「ドン・キホーテ」の合評に、比較される形で「にんじん」が出てきたかは前章で書いた通りだが、ではなぜ笑声が起ったかというと、この合評の載っているキネ旬の三号前つまり昭和九年四月二十一日号にほぼ同じメンバーが「にんじん」合評座談会をやり、これはもうなかばよいしょに近い褒めかたを全員がしているからであろう。この座談会はあとで少し紹介する。 (画像省略) 「にんじん」は昭和七年に作られ、昭和九年「ドン・キホーテ」より少し早く日本で公開されている。製作はフランスのヴァンダル・エ・ドゥラック。原作はご存知ジュール・ルナール。といっても小説は「博物誌」を書いたルナールらしく、本にしてたった二、三ページの、コントともスケッチともつかない短篇である。さらにこれはルナール自身によって一幕物の戯曲にされているがこれとて登場人物はたったの四人。ついこの間民芸で宇野重吉がやったのをご覧になった方もおられようが、まず一時間半くらいのものである。これらをもとにして監督のジュリアン・デュヴィヴィエがオリジナルに近い形で脚色したわけである。この「にんじん」をデュヴィヴィエは二度映画化していて、一本目はサイレント時代のもの、二本目がこのトーキーの「にんじん」である。よほど原作に惚れこんでいたのだろう。撮影はティラールとモンニオなるコンビ。音楽はアレクサンドル・タンスマン。  だいたいはご承知と思うがキャストを紹介しながらストーリイを追っていくことにしよう。  フランソワは末っ子で家族の誰からも愛されていない。髪が赤いので皆からにんじんと呼ばれている。このにんじんになるのがロベール・リナンというデュヴィヴィエの見つけてきた無名の少年である。にんじんを冷ややかに睨《にら》みつけては叱言《こごと》ばかり言っている母親ルピック夫人に扮するのが、舞台でもこの役をしばしば演じたカトリーヌ・フォントネエ。ただしこのルピック夫人、にんじんの姉のエルネスティーヌや兄のフェリックスは大のお気に入りである。エルネスティーヌがシモーヌ・オーブリー、フェリックスがマキシム・フロミオ。にんじんはこの二人も大嫌いである。  父親のルピック氏を演じるのがフランス劇壇の名優で演出もやるという大御所のアリ・ボール。にんじんはこの無口な父親をまったく理解できず、口さえきいたことがない。にんじんはひとり、神経質に、いじけて、そして愛に餓えていた。友達は犬のピラム。新しくやってきた女中のアネットと友達になろうとするが、ルピック夫人の監視の眼は鋭く、思うままにはならない。アネットを演じるのはオペレット畑からのクリスチアーヌ・ドールで、これは内田岐三雄、岸松雄両氏が「アネットをやるクリスチアーヌ・ドールこれもいゝな」「あの小肥りなアネットは、僕も好きだ」と、合評で褒めている。あと、名付親になるルイ・ゴーチェというやはりオペレット界からの出演者も「非常にうまかつた」と褒められているのだが、この人物がどういう役柄だったか記憶にない。にんじんと遊んだりするシーンがあったそうだから、おそらくはにんじんの唯一人の相談相手、とでもいった役柄なのであろう。他に、にんじんが未来の花嫁として遊ぶ二、三歳下のマチルドという可愛い女の子も登場する。だが一日中にんじんを口汚く叱ってばかりいるルピック夫人は、とうとうにんじんがこのマチルドと会うことさえ禁じてしまう。マチルドは子役のコレット・セガルであるが、この子も記憶にない。にんじんとマチルドが野原で婚礼ごっこをやり、牛などの家畜が二人を祝福して合唱したりするオペレッタ風の、いかにも子供が喜びそうなファンタジックな場面もあったというのだが、これもまたいっさい記憶にない。ではいったいどんなところが記憶に残ったのかというと、すべて暗い場面ばかりなのである。そうした場面から、ちょうどにんじんぐらいの年頃だった当時のぼくはだいぶ強い衝撃を受けたらしいのである。その場面だけは鮮明に思い出せるからだ。 「にんじん」を見たのは東第一中学校在学中で、即ち不良少年時代と重なりあう時期なのだが、この映画は学校をサボって見に行ったのではない。中学校から全校生徒が館を借り切って見に行ったのだ。そうとも。だいたいぼくともあろうものが、活劇でもなければ喜劇でもないこんな暗いフランス映画、特に「名作」の肩書きのついたこんな映画など、ひとりで見に行く筈はないのだ。場所は梅田新道にあった洋画封切館の梅田キャピトルであったか、あるいは中学校のすぐ近所、大手前にあった大阪毎日会館であったか、ちょっとはっきりしないのだがそのどちらかであったことは確かである。話が暗い上に古い映画だから画面が暗く、当然のことながら館内も暗く、トーキー初期の作品だから音も悪かった。いやが上にも暗い印象を受けざるを得ず、したがって暗いシーンだけが記憶に残ったのかもしれない。たとえば次のようなシーンである。  ルピック夫人は、無口で何を考えているかわからぬ夫のルピック氏になんとなくおそれを抱いているらしく、彼のいる前ではにんじんに当り散らすことはない。にんじんを殴りつけていても、ルピック氏がやってくると急に笑顔になり、やさしく頭を撫《な》でたりする。そのかわり、そんな自分に腹を立てるのか、ルピック氏が行ってしまうと「さあ二人っ」と叫んで狂気のようににんじんを打擲《ちようちやく》する。演技者がオーバーなこともあってその変り身の早さ、露骨さにぼくは驚いた。「ものすごいわ」(大阪弁で「まあひどい」の意)などとつぶやいている女の子の級友もいた。  次は、これはまあさほど暗いシーンではないのだが、ルピック一家が全員揃って食事をする場面がある。こういうところではルピック夫人、いかにも幸福な家庭の主婦といった偽善的な態度で団欒《だんらん》をでっちあげようとするのだが、そういう夫人がルピック氏には気に喰わない。 「まあ。あなた」と、ルピック夫人が夫に甘えた作り声で言う。「そのパン、とてもおいしそうですこと。ひとつ取ってくださらない」  ルピック氏、いきなり自分の前にある大きなパンの内部の柔らかい部分を人さし指でほじり出し、掌で直径三センチぐらいの団子に丸め、夫人に投げつける。眼球がとび出しそうなくらいに眼を見ひらいて立ちあがるルピック夫人。ぼくがこの映画で思わず笑ってしまった唯一のシーンである。  その次がぼくの記憶にいちばん鮮かな、にんじんの夢のシーンである。夢といってもはたして本当の夢なのか、それともベッドの中でのにんじんの、目醒《めざ》めたままでの自分との対話なのかよくわからない。演出家の意図としてはおそらく後者だったのであろう。つまりベッドの上ににんじんが上半身を起し、同じベッドの逆の側つまり足もとの方からもうひとりのにんじんがやはり上半身をもたげ、ふたりがベッド上で向きあって問答するのである。他愛ない二重焼付の技法による内的独白の映画的処理なのだがぼくはこれを本もののドッペルゲンガーと解釈して驚いた。当時まだドッペルゲンガーという言葉こそ知らなかったものの分身ということに興味を持っていたのだ。お前はまったく駄目なやつだ、と、にんじんに、もうひとりのにんじんが言う。いっそのこと死んでしまったらどうだい。その方が良いよ。死んだ方が楽しいにきまってるんだ。  ルピック氏が村長に当選してお祭り騒ぎのようになっているその夜、にんじんは納屋で首をくくろうとする。むろんこの場面もぼくははっきり憶えている。ルピック氏が駈けつけ、床にくずおれたにんじんと抱きあって泣く感動のシーンである。以後、「にんじん」といえばぼくは「子供が自殺しようとする非常にショッキングな話」として思い出したものだが、これは当時「子供の自殺」が非常に珍しかったからである。あるいは、あっても新聞に載らぬほど世相が乱れていて他に事件が多かったせいかもしれない。どっちにしろ今の子供など親にかまわれ過ぎた結果自殺しているケースが多いわけで、考えようによってはぜいたくな話である。  そうだ。今思い出した。そういえば東第一中学校時代、屋上からとびおりて自殺した少年がいた。つきあいはなかったが同学年の子であったし、あの少年の死に顔をぼくは見ているのだ。しかもそのことをぼくはマンガで茶化して校内新聞に発表しているではないか。中学二年の時だ。なぜ今まで思い出さなかったのだろう。あの少年の自殺は何が原因だったのだろう。  さて「にんじん」の結末であるが、この部分に関して当時のキネ旬の合評ではいろいろな意見が出ている。ちょっと紹介しよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  岩崎昶 (略)前の三分の二のマダム・ルピックの扱ひ方と後の三分の一のマダム・ルピックの扱ひ方が違つて居ると思ふ。初めは性格が全面的に出て居つて、あゝいふ人間はざらに居る。子供に対してあゝいふ態度を執り、あゝいふ種類の子供を理解出来ない偏狭な性質を持つた母親といふものを描いて居ると思ふ。ところが子供が革命を起す、あの辺から子供|虐《いじ》めの類型的な悪婆になつて居る。さういふ感じが非常にした。マダム・ルピックの終ひの描き方は通俗的な興味を狙つて居る点では成功して居るのだらうけれども、そのために子供の持つて居る悲劇の複雑さが随分減つたと思ふ。  清水千代太 それはさうだね。あの写真の欠点と云へばそれ位だ。  岩崎 デュヴィヴィエが恐らく意識的に妥協したのだらう。あゝいふやうにした方が女や子供は泣くだらうけれども、あれぢやお終ひが少し詰らぬと思ふ。  岸松雄 だけどにんじんが首を縊《くく》らうとする所へ父親が駈ける所など古めかしいが、心をうつ。それから納屋で死なうとしてゐる子供を捜してゐる父親。犬が納屋の梯子《はしご》を上る所で軽く切つて、後に続く。可哀想な「にんじん」は父親のうでに抱かれてゐるのだ。簡単なことだけれどもかうした運びの巧いのには驚いた。  飯田心美 これは北川冬彦君と話したことなんだが、親父の気持と子供の気持が川べりの所で融け合ふ。ところが融け合つて又その次に一緒に御飯を食べる所があるだらう。さうしてお互にルピック氏とかフランソワ(にんじんの本名)とか尊称を云ひ合ふ所がある。あれは興行価値から云つたらあつても宜いだらうけれども、ちよつと蛇足だと思つた。  岩崎 悪い女房を持つて女房と不和になつた亭主──父親──の悲劇になつて居る。その点で中心がはぐらかされてるので蛇足と思ふ。  岸 一応終つてから蛇足だと思はれる部分をつけたのが、普通の作家には出来ないのぢやないか。  岩崎 食卓に座つてから子供に対して、あゝいふ細君と一緒に暮さなければならないといふ父親とにんじんと両方の気持が……  清水 あそこでにんじんは親父に親友を発見するのだ。  岩崎 それは好いが、親父が余りに自分の心境を吐露し過ぎる。  飯田 親友を発見することは、すでに前のシーンに暗示されてある。あそこで切つて呉れゝば余韻を持つた奥行かしい作品になると思ふのだが。  清水 フランス好みはさうぢやないね。「ムッシュウ・ルピック」と口を辷《すべ》らして、「モン・パパ」と言ひ直して初めてはつきりする。  内田岐三雄 僕の考へでは二人で話ながら歩いてゐる結末の件《くだ》りが、チトそぐはない気がする。(略)但し、あの結末の件りで云はれる台詞は全部必要だ。あの台詞だけは抜く事は出来ない。僕の疑問は、唯この台詞をどう云ふ風に扱ふかといふことなんだ。 [#ここで字下げ終わり]  議論百出でまだまだ続く。こまかい点まで論じられるところが、やはり「にんじん」の値打なのであろう。この映画はこの年度のキネ旬優秀映画三位に推されている。なおキネ旬は昨八年度までの読者人気投票をやめて、この年度からは二十二人の映画評論家を中心とした委員による点数投票を行っている。  この昭和九年は日本でのデュヴィヴィエのあたり年で、一位にも「商船テナシチー」が入っている。残念ながらぼくはこれを見ていない。二位はご存じ独ウファの「会議は踊る」で、ぼくがこれを見たのはすでに大学生時代であったから、この映画史からは省く。四位はM・G・Mの「南風」でキング・ヴィダーの作品。五位はコロムビアの「或る夜の出来事」フランク・キャプラ作品。これはテレビで見たかたも多いと思う。六位ワーナー「家なき少年群」ウィリアム・ウエルマン作品。七位にやっと「ドン・キホーテ」が登場。以下「或る日曜日の午後」「生活の設計」と続き、意外にも十位がチャップリンの「街の灯」である。今とはだいぶ評価が違うようだが、チャップリンはその後もちあげられすぎた嫌いがあり、この頃の評価の方が正当ではないかという気がしないではない。なお、「街の灯」と並んで「クカラチャ」というRKOのカラー短篇が同点十位になっている。ルンバの名曲ラ・クカラチャをテーマにしたものだが、これなど現在のぼくがいちばん見たい映画である。尚、日本映画の方は一位が小津安二郎「浮草物語」で、二位が島津保次郎「隣りの八重ちやん」である。  封切当時、東和映画が宣伝に金と力を注いだこともあり、もともとこのてのものが大好きな日本人にぴったりした映画であったし、批評家たちによる「名画」の前評判も高く、「にんじん」は大入りに次ぐ大入りとなった。帝国劇場第一週は「連日満員の客が感激して帰つた」というくらいで、全市を通じて最高の数字をあげた。日曜日は六千円、週計三万円という当時としては驚異的な金を稼いだらしい。二週目も大入りで雨の日曜日も他館を圧してトップ。帝劇二週のあとを受けて武蔵野館が上映すれば、五十銭の入場料で日曜日には三千五百円以上、つまり七千人以上の入りという、五十銭劇場としては最高の記録を作って「新宿映画街を完全にK・Oした」という。さらにこの武蔵野館、二週目も一週目以上の成績をあげたそうである。四十数年昔、こういう地味な映画がこれだけ当ったという話を聞くと、どうも現代の人間の教養の程度が低いように思えてきてしかたがない。 「仮りに、映画の辿《たど》る道が数本あるとしたら、『にんじん』は早くもその一本によつて、目的地に到着したのではあるまいか、と見終つた瞬間感じた程打たれました」 「映画の目的地」と題する水谷準の感想である。 [#改ページ]  「世界の終り」  古いキネマ旬報を見ているうちに前章の「にんじん」に関連して、面白い批評が出ていたから紹介しておく。 「『にんじん』の、にんじんが、馬車に乗り、鞭《むち》を振つて、叫ぶ場面。『誰も乃公《おれ》をあんなに可愛がつて呉れないぢやないか。』といふ、邦文字幕を読み、にんじんの顔を見たら、ギヤアーと叫び声の出さうになる程、悲しくなつて、涙がワイ/\出ました。何うも、これには、自分ながら驚きました。が、結局、映画『にんじん』を高く買ふことは出来ません。あれは文学です」  昭和九年九月一日号に載った古川緑波の「一と理窟」なるエッセイの一部である。  十年ほど前、小林信彦がフェリーニの「甘い生活」を「文学の何たるかを知っている人ならあの映画は認めない筈だ」と批判していたことがあったが、いろいろな考え方があるもので、いったい芸術映画は文学であってはいけないのかどうなのか、ぼくにももちろんよくわからないのだが、いったい現在ではどちらが正しいことになっているのであろう。  今回とりあげるこの「世界の終り」もフランス映画で、たまたま「ドン・キホーテ」「にんじん」に続きフランス映画ばかり三回続くことになる。そしてこの映画を見たのも「ドン・キホーテ」を見たのと同じ梅田小劇場であり、タイトルと看板の絵につられて見てしまったのも「ドン・キホーテ」と同じである。ただし「ドン・キホーテ」ほど失望はしなかった。  この映画の日本初公開は昭和十年三月である。ただし実際に製作されたのはそれより五年前で、監督アベル・ガンスの最初のトーキー作品だという。だからこの映画に関する記事は公開よりずっと前からキネ旬に時おりちらほらと載っていて、昭和四年十月一日号の「海外通信」欄には「アベル・ガンス氏の大作品『世界の終』"La Fin du Monde"の撮影は進捗《しんちよく》してゐる。サン・クルウ森やヴェルサイユに於けるロケーションは好成績を収めた。尚ほ此の映画の発声音響版はロンドンの某撮影所で制作される筈である」という短信が、とんで昭和六年六月十一日号の同欄は、「期待されたガンスの大作であるが、評判は、香ばしくない」という記事が出ている。さらにその次号では林文三郎という人が「ベルリン日記」(連載第二回)にこう書いている。  ノルレンドルフ広場のモオツアルト座とノルレンドルフ劇場では並んでアベル・ガンスの「世界の果」とアレキシス・グラノウスキイの「人生の歌」が封切されたが、後者が一ケ月も続映してゐるのに、ガンスは二週間で消えてしまつた。「巴里の屋根の下」から「ミリオン」とルネ・クレエルがベルリンの映画界の寵児《ちようじ》になつてゐるのに、ガンスの「世界の果」は余りにも不遇であつた。(中略)  僕は初演の時に前列に近い席を占めてゐたが映写が済むと、舞台の右手からゲルト・ノワリスと同じ様なアベル・ガンスが静かに現はれて来た。然し立ちかけた観客はガンスに対して激しい拍手を浴せはしなかつた。たゞガンスのファンであらうと思はれる少数の人が熱心に「ブラヴオ」を叫んだきりでガンスはそのまま舞台から消えてしまつた。  文中ゲルト・ノワリスとあるのはこの映画の主人公で、アベル・ガンスはこの映画で脚本、監督、主演の三役をやっているのだ。  さて、これほどヨーロッパで不評だった映画を、しかも五年も経ってからどうして千鳥興業が輸入したのかよくわからない。おそらく「キング・コング」同様スペクタクルとしてのみ売ろうとしたのであろう。 「黄金狂時代」の章に書いた「大正十五年度優秀映画」の第五位になっているあの「鉄路の白薔薇」の監督がアベル・ガンスである。彼は他にも無声映画時代に「戦争と平和」など名作を撮り、ずいぶん名の高かった監督なのだが、トーキーになってからはこれという作品も見せず、ついには忘れられてしまった。千鳥興業もアベル・ガンスの名で輸入したのではない筈である。  ストーリイというのはカミーユ・フラマリオンの天文学説に基づいてガンスが創作した空想物語で、現在ならさしずめ終末SF映画とでも銘打たれる筈の話である。 「近代文明の極度の発達は、却つて世界を混乱に陥れ、道義は紊《みだ》れ、世は戦乱と破滅との道を辿つてゐる」ここに、この世の救済を唱えるノワリスという兄弟がいた。兄の天文学者を演じるのが舞台俳優のヴィクトル・フランサン、愛の福音を説く弟がアベル・ガンスである。ところがこのノワリス兄弟、共にひとりの娘を恋している。このジュヌヴィエーヴという娘をコレット・ダルフィーユが演じ、さらにこの娘に横恋慕して金の力でなんとかしようとする悪役の銀行家ショーンブルクをやはり舞台俳優のサムソン・フェンシルベエが演じる。 (画像省略)  折も折、兄の天文学者は地球めざしてやってくる彗星《すいせい》を発見する。「地球と彗星が衝突すれば、これは世界の破滅である! しかもそれが二カ月後に迫つてゐる! ここに於て全世界は阿鼻叫喚の巷《ちまた》となつた」  弟ノワリスは愛を説くうち頭に投石され、それがもとで発狂する。「ジュヌヴィエーヴはその枕辺で己れの不実を詫《わ》びたが、世界破滅を前にして最後の時を享楽したく再び彼女はショーンブルクの許へ帰つて行つた」  実をいうとぼくはこのあたりまでのストーリイをほとんど記憶していないのである。フィルムがブツ切れだった上、話は暗いし画面そのものも暗い上、当然のことながら館内も暗く、何が何やらわけがわからず、おそらくはただ最後のスペクタクル・シーンのみ心待ちにして見ていたのだろうと思う。それに話が話だから俳優の演技はみんな大時代的で、さらに主役連中のほとんどが舞台俳優だから尚さら大時代で、剥《む》き出した眼球と罵声《ばせい》怒声の洪水《こうずい》、とにかく登場人物すべて気ちがいという印象しか得ていない。  ところがこのオーバー・アクトはスペクタクル・シーンになるにしたがい不自然ではなくなり、むしろ大変な迫力を生み出しはじめる。  世界が終るという事態になってもまだ、この混乱に乗じて金を儲けようとするやつがいて、この辺のところがどうもぼくにはよくわからない。不思議な人間がいればいるものだが、こういう奴《やつ》が出てこないと話にならないのだろう。銀行家ショーンブルクはこの時を利用し詐欺的投機によって巨利を得ようとするが、その計画を兄ノワリスがエッフェル塔の上から無電で曝露《ばくろ》しようとしていることを知り「それを止めんとしてエッフェル塔占領を志し、大活劇の後に、彼は墜落惨死した。そしてジュヌヴィエーヴは再び皮肉にも兄ノワリスに救はれた」  ずいぶんご都合主義の展開である。 「愈々《いよいよ》彗星が地球に近づいて来た。地上では或る者は救ひの祈りをあげ或る者は最後の享楽を求めて乱倫に走つた」  いちばん鮮明に記憶しているカットはこの部分である。でかい宴会場の俯瞰《ふかん》で、あっちのソファでは男と女が抱きあい、こっちのソファではシャンパン・グラスを呷《あお》るが如く傾け、といった上流社会の連中の乱交パーティじみたシーンなのだが、このあたり、端役《はやく》にいたるまでオーバー・アクトでありながら皆舞台の役者なのかいずれも演技はうまく、感心させられた。ぼくがその後、ことあるごとに言っている「日本のSF映画に出てくる群衆は演技が下手だ。あるいは照れてお座なりにやっているのか、怪獣に追われて逃げながらうすら笑いを浮かべている。真剣にやっていない」という不満は、今考えるとすべてこの映画との比較の上で言っているのである。  特に感心したのは、いよいよ彗星が間近にやってきて建物の崩壊した岩塊《がんかい》が宙を舞い狂う終末のシーンで、ワン・カットだけクローズ・アップで出てくる肥《ふと》った中年のおばちゃん。眼を見ひらいて悲鳴をあげるその恐怖の表情は今にいたるまで心に焼きついている。看板の絵にもこのおばちゃんの顔は描かれていて、ぼくはその絵につられて見に入ったのだ。日本であの顔のできる女優はいないのではあるまいか。この部分の特撮も今から考えたらちゃちなものだったのだろうが、ぼくはこのおばちゃんの表情だけで満足した。  この映画を見た不良少年時代、他にもっと面白い映画をやっていた筈なのだが、たとえばハンフリー・ボガートの「脱出」だの、ぼくが見たいと思う面白そうな映画がロード・ショウとして公開されていたりして、入場料が高くて手が出ないこともあったのだ。三流館だけあって梅田小劇場などはずいぶん安かったように思う。入場料の安さに比べればこの映画など、満足した方の部類に入る。ぼくが父親の蔵書を持ち出しては売りとばしていたあの天神橋五丁目の露天古本業のお兄ちゃんも、いつもそれほど高く買ってくれるわけではなかったし、持ち出すのに手頃で、しかも高く売れそうな本は家にあまり多くなかった。本が安くにしか売れなかった時は一流館の映画をあきらめなければならなかったのだ。  売った本は六、七十冊に及ぶ筈である。百冊近いかもしれない。よく父親が気づかなかったものだと思うが、当時は敗戦直後で父もいろいろと忙しく、蔵書の整理をしている暇もなかったのだろう。  父の蔵書のうち、日本の書物には目ぼしいものがなくなってきたので、次にぼくが眼をつけたのは動物学関係の洋書である。日本の貧弱な学術書に比べればずっと分厚くて装幀《そうてい》もよく、挿入されている写真も豊富で高く売れそうに思えたのだ。ぼくはまたもやこれを次つぎと持ち出して例の天然パーマのお兄ちゃんに買ってもらった。 「洋書はあまり売れないんだが」  そう言いながらもお兄ちゃんは持って行く本を全部買ってくれた。ぼくの持って行く本が動物学関係の本ばかりなので、お兄ちゃんもきっとぼくのことを、動物学者の息子に違いないと見当をつけていたことだろう。 「父が病気なのでお金が要《い》るんです」  ぼくはお兄ちゃんにそんないい加減なことを言っていたが、この嘘もあのお兄ちゃんは見抜いていたと思う。ただしぼくの例のスタイルはどう見ても不良少年には見えなかった筈だから、もしかすると本気にしていたかもしれない。  不良少年だけあって悪知恵は働く。動物学の専門書だからいずれは動物学者の手に入ることになる。その時本のもとの持ち主がわかったのでは具合が悪い。動物学者なら父の名を知っているかもしれないし、父に報告されたらぼくの悪業がばれることになる。洋書の見返しにはたいてい父が Y.Tsutsui あるいは Yoshitaka Tsutsui と署名しているので、これを消さねばならない。消す場所は阪急電車の中しかなかった。行きがけに洋間へ入り、本を二、三冊例の頭陀袋《ずだぶくろ》の鞄に押しこみ、鞄の膨《ふく》らみを見られぬようにさっと家を出なければならないからだ。当時千里山駅は阪急電車の終点だったので空席はある。ぼくはシートに腰かけ、膝《ひざ》の上に鞄をのせ、その上で洋書を開き、読むふりをしながら消しゴムや唾液《だえき》で見返しの父の署名を消した。  これを見ていた人がいる。家の向かいに横山さんという家があって、ここの美智子さんというお嬢さんはぼくと同い歳《どし》、小学校と高校が一緒だった。このひとのお父さんが毎朝ぼくと同じ電車で出勤していたらしく、ぼくの方は気がつかなかったのだが、あっちはいつもちゃんとぼくを観察していたわけである。 「筒井さんの坊ちゃんは偉い。まだ中学生なのにいつも電車の中で洋書を読んでいる」  これがどういう経緯でか母の耳に入り、母は横山さんがこう言っていたらしいよと笑いながらぼくに話してくれた。ぼくはどぎまぎしたが母はその後このことを父にも話さず、すぐ忘れてしまったようだった。まさか洋書を売りとばしているとは夢にも思わなかったのであろう。  悪事をはたらくつもりが裏目に出て人から褒められてしまったことが他にも何度かある。小学校時代、授業が終る寸前に空襲警報が出たので全校生徒が家へ帰された。警報が解除されたのち、ぼくはあるちょいとした悪事を働く下心があって誰もいない学校へ戻った。教師に見つかり、ぼくはちょうど掃除当番だったことを思い出し、掃除に戻ったのだと言いわけした。当番の生徒のうちその日他に掃除に戻ってきたやつはひとりだけ、これは本当に正直なやつだったのだが鈴木という生徒だけだった。ぼくと鈴木は翌朝表彰された。  今でも褒められるたびにうしろめたい気がするのはそのてのことが度重なったせいではないかと思う。現在ぼくはSFを書き、時おりは傑作だと褒められたりするのだがどうも気が咎《とが》めていけない。SFを書いている真意は実は他にあって。あっ。話がだいぶ横道にそれた。映画に戻ろう。 「世界の終り」の終りはちっとも世界の終りではなく、定石通り彗星は地球と衝突せず、危く外れるのである。「地上には、愛と幸福と和らぎの生活がまた生れ出るのである」  廃墟《はいきよ》に立ちあがる人びとのラスト・シーンも印象に残っている。これはぼくの想像だが手塚治虫のある作品のラスト・シーンなど、この映画の影響があるのではないだろうか。  仏蘭西レクラン・ダール映画「世界の終り」九巻はそれでも浅草大勝館で封切られた時は浅草筆頭の吸引力を示したし、丸の内帝国劇場でも「巧妙な誇大宣伝で客を呼んだ」そうだ。ただし新宿武蔵野館や京都松竹座ではそれぞれ「此処の観客層には不向き」で不調だったという。  キネ旬に載っている村上忠久氏の評もひどく悪い。 「アベル・ガンスの第一回トーキイである丈に製作当時は世評|轟々《ごうごう》たる物があつたがそれは五年も昔の事であり、今我々の眼前に招来せられたる此の映画に対しては、唯アベル・ガンスの為にかつての声名を惜しむのみである」ぼくなどアベル・ガンスの作品はこれだけしか見ていないのだから、声名を惜しむこともできないのだ。 「アベル・ガンスは昔に変らぬその心情をやはり此映画に於ても散見せしめてはゐる。愛し合ふ二人の語らひに、亦、心狂ひ行く病床に、鳩の群をあしらふ事を忘れぬ純情である。而し、映画その物の展開は甚だしく混乱して最後に至るに従つて殊に烈しく、物語の首尾一貫したる興味はなく、僅かにクライマックスの世界の終りの混乱を描いた部分が好奇心的にいくらか興味がある以外には、見るべき物は更にない。何よりつまらないのは登場せる各人物の性格、関係が更に明瞭で無い事であつた。発声映画的にも何等語るべき物はない。此の映画全体の混乱錯綜は一つは十三巻の物が九巻にちゞめられた物によるのかとも思はれるが、とにかく此処でのアベル・ガンスの姿にはかうした野心的なる題材を選んだ事以外には、何等感心すべき物はなかつた」昔の批評家の方がすべてにわたってきびしかったような気がするのはぼくだけだろうか。 「撮影はクリューゲルとルーダコフであるが、此の映画のプリントは損傷甚だしく、画面荒れてキャメラを云々するには耐へない物であつた」だとすると画面の暗さは輸入当時からのものであったらしい。それにしても特撮技術についてちょっとひと言、書いてほしかった気もする。 「出演者は皆可成大時代な芝居をしてゐるが三人の主演者をはじめ何れも好演とは云ひ得ない」ま、だいたいにおいてぼくと同じような感想といっていいだろう。  ついでながらこの「世界の終り」が封切られたのと同じ頃、つまり昭和十年の三、四月頃にどんな映画が上映されていたか、何かの参考にちょっと記しておく。  浅草日本館ではビクター・フレミング監督のM・G・M映画「宝島」を上映している。ジャッキー・クーパー少年、ウォーレス・ビアリイ、ライオネル・バリモア主演。ご存じスチーブンソンの冒険小説の映画化である。ミッキー、ポパイ、ベティの漫画を同時上映しているが、春休みだからご家族週間というわけだろう。  日劇では「ベンガルの槍騎兵」が大当り。ヘンリー・ハサウェイ監督、ゲイリー・クーパー、フランチョット・トーン主演のパラマウント超大作だ。  封切ではないが札幌の日活館ではターザン大会をやっている。ジョニー・ワイズミュラーのターザン第一作「類人猿ターザン」、第二作「ターザンの復讐」である。  これより少し前、二月にはP・C・Lが「エノケンの青春酔虎伝」に次ぐエノケンの映画第二作「エノケンの魔術師」を封切っている。あいにく二作とも舞台ほど評判はよくなかったようである。 [#改ページ]  「丹下左膳餘話・百萬兩の壼」  突然、あの天然パーマのお兄ちゃんから電話がかかってきたのでぼくは驚いた。三十年ぶりである。このエッセイを連載中の「オール讀物」を奥さんが読み、これはあなたのことに違いないと言ったので、はじめて、それまで読んでいた小説の作者と、三十年前のあの「白い鞄をさげた」「真面目そうな」少年とが頭の中で結びついたのだそうだ。今でも天神橋筋五丁目の、昔露店を張っていた近くで「青空書房」という店を出しているのだそうで、この人の名が坂本健一であったことも、聞いてやっと思い出した。今、五十三歳だそうであるが、ぼくにとってはやはり天然パーマのお兄ちゃんなのである。 「白い鞄」ではなく、実際はねずみ色の頭陀袋《ずだぶくろ》であったし、「真面目そうな少年」は実は不良少年だったのだが、そう言うとお兄ちゃんは、たしかにあれは頭陀袋ではあったが、あの時代、学校をサボって映画を見に行くくらい、不良少年でもなんでもなかったのではないかと言ってくれた。しかしお兄ちゃんの説に賛成するとこのエッセイのタイトルを変えなくてはならないので、やはり不良少年であったことにしておく。  この「不良少年の映画史」の連載中、四回目以降、お兄ちゃんのことはしばしば書いていたのだが、お兄ちゃん、本屋さんだから当然のことだが「オール讀物」は毎号とっていながらこの連載に限り今までわざと読まなかったのだという。「わたしも映画が好きだったけど、昔の映画の話はあの頃のことを思い出し、心の傷がいたむので」とのことであった。  ぼくが売りとばした動物学関係の洋書や専門書も、「洋書は売れないんだが、とわたしが言ったように書いておられましたが」結局は全部売れたらしい。さらに、ぼくは忘れていたのだが「父が以前動物園の園長をしていて」と口をすべらしたことがあったらしく、それをお兄ちゃんは憶えていた。「あの子、どうしたかな」などと、弟さんとよく話していたのだそうである。 「いやあ。それにしても懐しいですなあ」と、お兄ちゃん。近くお店の方へお邪魔する約束をしたので、そのことはまた次の機会に書くとしよう。  戦争末期及び敗戦直後は新しく作られた映画の本数が足りず、封切館でさえ昔の映画のリバイバル上映をしていたが、この「丹下左膳餘話・百萬兩の壺」もそのひとつ。昭和十年の五月に日活京都で製作されたものである。この映画、どこで見たのか確かな記憶がない。おそらく吹田東宝か旭座の、東宝系映画館であったろうと思う。このころ、洋画専門館と邦画専門館は、たとえ同じ二流館であってもはっきりと匂いが違った。邦画館の多くはロビーではなく客席後方の隅に売店があったり、休憩時間中に食べものを売って歩いたりしたためであろうか、おかきの醤油の香りと、昆布の酢の匂いと、のしいかやするめの甘ったるい匂いの入りまじった下賎《げせん》な匂いがした上、便所からの臭気も強かったようだ。だがぼくはあの臭気が今でも好きである。洋画館の方は一流館になればなるほどラッキー・ストライクやキャメルなど洋モクの芳香が強く、これにアイス・クリームのヴァニラやアーモンド、ピーナッツの匂いも混っていた。この匂いももちろん、ぼくは好きだった。 (画像省略)  あの邦画館の臭気は「丹下左膳」のBGSとしてぴったりだった。BGMというのがあるのだからBGSだってあっていいだろう。「丹下左膳餘話・百萬兩の壼」は、最初「丹下左膳・尺取横町の話」として撮影が進められていた。これは大河内伝次郎による丹下左膳の第三篇であって、第一篇は昭和八年十一月に「丹下左膳」として、第二篇は同九年三月に「丹下左膳・剣戟篇」として、いずれも伊藤大輔が監督したのだが、伊藤大輔が日活をやめてしまったので続篇の製作が中断されたままになっていたのを、山中貞雄が新たに構成し、監督したのである。  ところがいよいよ完成した時になって、試写か何かでこれを見た原作者林不忘が文句を言い出した。自分の丹下左膳ではないというのである。山中貞雄は脚色の三村伸太郎と共にこの映画を丹下左膳のパロディとして喜劇的に作ってしまったのだ。今、キネ旬でスタッフのところを見ると「脚色・三神三太郎」となっているが、これは山中貞雄と三村伸太郎の合作ペンネームではあるまいか。日活はしかたなく、これを表記の如く改題して封切ったのである。  したがって物語の内容も前二作に連続せず、独立した話になっているし、キャストもほとんど変っている。むろん大河内伝次郎は左膳役者として欠かせないが、山田五十鈴の演じていた萩乃は花井蘭子に変り、吉野朝子の演じていた櫛巻《くしまき》お藤にポリドールの小唄歌手喜代三|姐《ねえ》さんが扮している。ただし原作にある「こけ猿の壺」だけは重要な小道具となり、話はこの壺をめぐって展開される。  伊賀柳生の城主対馬守(阪東勝太郎)は、自分の持っていた「こけ猿の壼」が、じつは「此国第一代の城主が不時の備への軍用金にと百万両を埋めた場所を記した絵図面」が塗りこめられている壼であると知って驚く。じつはその壺はすでに、弟源三郎(沢村国太郎)が江戸の妻恋坂にある司馬道場へ婿入りした時、引出物にと持たせてやってしまっていたのだ。対馬守はあわてて家臣の高大之進(鬼頭善一郎)を呼び、江戸まで行ってあの茶壼を返してもらってこいと命じる。だが源三郎の方では、自分の婿入りにうす汚れた茶壺しかくれなかった吝嗇《りんしよく》の兄に腹を立てていたので、わざわざ江戸までやってきた大之進の頼みをことわり、ある日|中間《ちゆうげん》の与吉(山本礼三郎)に命じ、壼を屑屋《くずや》に売りはらってしまった。この屑屋というのが茂十(高勢|實乗《みのる》)と当八(鳥羽陽之助)の二人組である。  このコンビが実におかしい。高勢實乗は言うまでもなく「アーノネオッサン、ワシャカナワンヨ」の名|科白《せりふ》でお馴染あのねのおっさんなのだが、この映画ではまだその科白は出てこず、ひょろひょろとながいからだに籠《かご》を背負い、長い手をだらりと前に垂らし、ふらりふらりと歩いていて、おかしさ抜群だった。また昔の東宝時代劇には必ず出て来た鳥羽陽之助も飄飄《ひようひよう》とした風貌の三枚目バイプレイヤーでぼくの好きだった役者のひとり。このひと、山中貞雄監督作品では主に清川荘司とコンビを組んでいた。キネ旬の「読者寄稿欄」には戸田隆雄という人がこう書いている。 「屑屋の当八と茂十は、如何《いか》にも、ぼろ/\といつたやうな感じのする、薄野呂らしい一対である。私共は此の二人が、長い籠を腰にブラ/\させ乍《なが》ら、ヒョッコリ/\現はれると、その度毎に、手を打つて、哄笑した」  さて、源三郎は、大之進があまりしつこく頼むので不審に思い、痛い目にあわせてとうとう真相を白状させてしまう。屑屋に売った壼が百万両の値打ちと知ってびっくり仰天、地だんだを踏む源三郎。これより源三郎や与吉の一派と、高大之進や柳生家江戸家老などの一派が、二派にわかれて茶壼探索と争奪戦を演じるわけである。  ここでちょび安が登場する。この子役は第一篇、第二篇の中村英雄が大きく成長しすぎてしまったため、代わって宗春太郎が可愛らしく演じている。キネ旬「スタヂオだより」によればこの宗春太郎君、当時千恵蔵プロにいた香川良介の息子である。この子の出演をめぐって、千恵プロから売り出した方がいいと主張する名付親の伊丹万作、伊藤大輔、日活に出ろとすすめる稲垣浩、山中貞雄、この両者の義理にはさまれた香川良介などの間で相当ごたごたしたらしい。結局この子を可愛がっていた御大千恵蔵にまかせて一件落着となったわけである。  ちょび安は屑屋の茂十、当八が住んでいるのと同じとんがり長屋にいる心太屋《ところてんや》七兵衛の伜《せがれ》である。このちょび安、金魚入れにするため「こけ猿の壼」を当八から貰う。ここの部分の会話が面白い。 「小父さん。この壼は、本当はなんの壺なんだろ」と、ちょび安が訊ねる。  当八は困って「やはり、金魚入れなんだろ」と言う。  と、これを傍で聞いていた茂十が急にしかつめらしい顔をして「金魚入れだと。なにを馬鹿な」と当八に言い、おや、この男は壺の正体を知っているのかなと一瞬観客に思わせてから、重おもしくちょび安に「この壺はな、本当は塩せんべいを入れる壼だ」  じつに間あいのうまいギャグだった。  ちょび安の親父七兵衛は、尺取横町にある矢場の女お久(深水藤子)に惚れて通いつめていた。この矢場を経営しているのが櫛巻お藤(喜代三)である。この喜代三姐さんのお藤、原作とは違って毒婦でも妖婦《ようふ》でもなく、ちょいとくずれた年増というだけだがさすがに色気だけは十二分、ただしその色気はずいぶん清潔な色気だった。このお藤の矢場で用心棒をしているのが丹下左膳で、しかもお藤とはわりない仲、昼間っから座敷でごろりと寝そべったりしている。最初のうち、この二人の他愛ない日常的な口喧嘩が続く。たとえば喜代三のお藤がお得意の小唄をひとくさり歌うと、大河内伝次郎の左膳が例のエロキューションとイントネーションで、 「やめでぐれ。お前の唄《うだ》を聞《ぎ》いでいるど頭《あだま》がずぎん、ずぎんする」  などと言うものだから口論がおっ始まるのだ。こういう口論でいちゃつくのが二人の愛の方法らしく、だから喧嘩しながらもすべてはなめらかに進行し、平和な日が続いている。たとえば、通し矢があまり上手なため、地廻りのならず者鬼の建太(今成平九郎)とおしゃかの文(高松文麿)の恨みを買ってしまった七兵衛の身を案じ、お藤が左膳に「七兵衛さんを送ってあげてよ」と頼む。いやだあ、とわめいて頑張る左膳。だが次のカットでは、結局左膳が七兵衛と並んで歩いている、といった寸法である。このあたりの省略法、山中貞雄や伊丹万作は実にうまかった。前章でとりあげたアベル・ガンスが「鉄路の白薔薇」で最初に実験的にやって成功したモンタージュの手法は、以来邦画界でもずいぶん評判になり模倣されたらしく、このころの邦画には洒落たモンタージュがしばしば見られる。  しかし結局七兵衛は建太と文に闇討ちされ、殺されてしまう。いまわの際《きわ》に七兵衛からちょび安を頼むといわれ、左膳はちょび安を矢場へ引取ることにする。お藤は反対するが、金魚の入ったこけ猿の壼ひとつを財産に、ちょび安は食客としてころがりこんでくる。そのうちお藤もちょび安を可愛がるようになり、寺子屋で書いてきたちょび安の清書を見て、ふたりで「弘法もこうは書くめえ」などと褒めたりする。  矢場の朝、門口に立ったちょび安が寺子屋へ行きたがらない。ふたりが訊ねると「勝ちゃんがいじめる」という。「なんだ。だらしのない」と、ふたりは叱る。ちょび安はお久に「姉ちゃん。送ってよ」といい、お久がついて行こうとする。お藤が「いいえ。安ちゃんはひとりで行きます」といい、ちょび安は結局ひとりで出かける。  もう、おわかりであろうか。この丹下左膳、今でいえばホーム・ドラマなのである。この映画の左膳はもはや蒼白《あおじろ》い剣鬼ではない。例の「シェイは丹下、名はシャジェン」の名科白も聞かれない。前二作と同じ怪奇美そのままの隻眼隻手という姿で出てはくるが、ただの人のいい、気短かなおじさんなのだ。  左膳の方が子育てドラマとすると源三郎の方は恐妻ドラマである。好色癖のある源三郎、壼をさがしているうちに矢場へやってきてお久に惚れてしまい、毎日通いつめ、矢をひいて過している。この源三郎ももはや左膳との仇敵《きゆうてき》同士ではない。沢村国太郎という小肥りで目玉の大きいとぼけた役者にぴったりの色好みの好人物である。  源三郎の奥方萩乃(花井蘭子)は、神社まいりをして神様に壼の行方を訊ねると東の方大吉というお告げである。そこで神社の遠眼鏡をのぞくと、あろうことか養子の亭主源三郎がお久と共に金魚釣りに興じているではないか。やきもち焼きの奥方、亭主を邸に閉じこめ、金魚釣りのかわりに庭の池で一日中鯉を釣らせる。  花井蘭子も東宝時代劇などによく出た女優でぼくは大好きだった。こんな古風なおっとりしたタイプの女優さん、今はいないし、絶対に出てこないだろう。「エノケンの孫悟空」では観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》をやり、美しさ無類だった。今の女優で観音さまをやれる女優、誰かいるか。  その間にも二派の茶壺探索は続行され、全市の屑屋が虱潰《しらみつぶ》しにされる。茂十と当八も家の中をひっくり返され、外へ出れば籠をぶちまけられる。家へ戻ると、せっかく片づけた家の中が、留守中にやってきたもう一派のため又もや滅茶苦茶。へたへたへた、とすわりこむ茂十と当八。  一方左膳は、ちょび安のいたずらから六十両という大金を用立てしなければならなくなる。ここで左膳とお藤が金策について話しあう会話もまことに小市民的で、その辺の現代の夫婦の会話と何ら変るところはない。  奥方の許しを得てまたもや茶壺捜しに出かけた源三郎、すぐさま恋しいお久に会いにくるが、ここでついに矢場にあるこけ猿の壺を発見する。だがすでに左膳と顔馴染になっていた源三郎、「今、壼を持ち帰るともう矢場へ来られなくなるから、壼はしばらくそちにあずけておく」と言ってあい変らずお久にべったりである。 「こんな壼、なぜそんなに大切なんだろ」というお藤に左膳は鼻糞《はなくそ》をほじりながら言う。 「源三郎の手水鉢《ちようずばち》じゃろ」  いよいよ金の必要に迫られてきた左膳、お得意の道場荒しで稼ごうとし、乗りこんだところが妻恋坂の司馬道場。道場主源三郎と左膳はここで意外な対面をし、なんだお前かとお互いに唖然《あぜん》とする。源三郎は左膳に六十両の金をやり、ついでに茶壺の秘密を打ちあける。あの金魚入れが百万両かと左膳は驚き、あわてて矢場へ帰ってくる。ところが壺はすでにない。  折柄、柳生の江戸屋敷では、いかなる壼も高く買いますという触れを全市中に出していた。いたずらの責任を感じていたちょび安は、少しでも払いの足しになるようにと、唯一の財産である壼を持って柳生屋敷へ出かけたのだ。壺をかかえて歩いて行くちょび安の可憐なうしろ姿に|W《ダブ》って哀愁味たっぷりの音楽。このBGMは今でも口ずさむことができる。  これを知った左膳はちょび安を追って驀進《ばくしん》する。  クライマックス・シーンが柳生屋敷の門前。このカット、カメラを据《す》えっぱなしでいい効果を出している。撮影は安本淳。  手前右手に柳生屋敷の門。街道に、壼を持ってきた町人が並んで順番を待っている。ちょび安がこの列の最後尾につく。次つぎと門の中に入って行く町人。と、街道のはるか彼方に豆粒のような左膳の姿があらわれ、こちらへ走ってくる。町人たち、すべて門の中に入り、いよいよちょび安の番がくる。ちょび安が今にも門の中へ入ろうとする瞬間、左膳が走り寄ってちょび安を引き戻す。  がっちりできた話だなあ、と、子供心にぼくは驚嘆した。期待していた凄絶《せいぜつ》なちゃんばらこそなかったが、ぼくは失望しなかった。(のちに聞いた話では、左膳がちょび安を追うシーンで、邪魔立てする数人とちゃんばらを演じたそうだ。戦後の上映では占領軍にカットされたらしい)帰宅が遅くなって父に叱られてもいいから、何回でも見てやろう、と、ぼくは思った。話の持っていきかた、人物の出し入れなどを研究してやろうという意図は意識していなかったが、結果は四回ぶっ続けに見て話の細部まで頭に叩きこんだ。ストーリイ・テリング開眼、といったところであろうか。  封切当時のキネ旬「映画館景況調査」によれば浅草富士館では「山中貞雄が丹下左膳の喜劇をつくつてしまつたので、原作者の林不忘は俺の丹下左膳ではないと日活にねぢこんでこの映画を改題させてしまつた。それでも丹下左膳餘話とあるからには、観客は大河内の丹下左膳がむかしから好きなのでこの映画に食ひついた。そして林不忘の日活への抗議は新聞種となり逆に宣伝効果をさへ持つたのである。余談は扨置《さておき》成績は初日二千円、日曜三千六百円で、週計一万四千円を揚げた。観客のなかには真面目な丹下左膳を期待して落胆した向もあつたが、無理もないことである」、丸の内帝都座では「丹下左膳は余話だけに多少吸引力の点では割引もされたが、伝次郎隻眼片腕の風貌はそれ自身既に数多のフアンを魅惑するに充分なるものがある。十六日の三千三百円を最高として、十七日月曜のあの烈風の悪日に於てすら千円を欠くることなく週計実に一万三千円と言ふ堂々たる成績」、大阪常盤座では「日活が期する所多き山中、大河内の丹下左膳であるが、今度のは林不忘のそれとは可成《かなり》違つた人情喜劇風の物である丈《だけ》に、例の丹下左膳を見ようとした観客は一寸面喰つたらしい。而し、画その物は充分面白いし、ポリドールの喜代三の特別出演もあり、成績としては予想程ではなくとも充分好調であつた」という。  批評も好評で、北川冬彦氏も「新講談として上乗の作」「何かしら現代劇を見てゐるやうな気持もする」と、褒めている。 [#改ページ]  「|密林の荒鷲《ヤング・イーグルス》」  この映画を見たのも梅田小劇場である。昭和十年に封切られた時は「密林の荒鷲」だったが、戦後ぼくが見た時は原題通り「ヤング・イーグルス」で宣伝されていた。ジャングルの河に膝まで足を浸した少年が、襲ってくる鰐《わに》の口を両手で大きく開いている絵が看板になっていて、この看板は梅田小劇場の壁面にずいぶんながい間かかっていたから、冒険映画などあまり上映されなかった当時のこと、きっと客の入りがよくてロングランをしたのだろう。ぼくはこの映画をだいぶためらった末に、上映されはじめてだいぶ経ってから見ている。英語の意味がよくわからなかったことや、有名でない少年俳優が主演していたことや、その他いくつかの理由でためらったのだ。ぼくが見たいと思うものは一に喜劇、二に活劇であったし、活劇も喜劇的要素の強いものが好きだった。この「ヤング・イーグルス」はあまり喜劇的要素がないように思われたのだ。  見ると結構面白かった。少年にとってはジャングルというだけでも魅力があるし、子供のことだからトリックなど撮影技術のまずさなどにもあまり気がつかない。  ニューヨークのボーイ・スカウトの団員ボビイ(ボビイ・コックス少年)とジム(ジム・ヴァンス少年)は、マクリーン(カーター・ディクソン)の操縦する飛行機で南米のボーイ・スカウト訪問に出発する。だが、途中ジャングルの中へ不時着してしまう。野営しているうち土人の襲撃を受けて、今度はマクリーンが拉《らつ》し去られてしまう。ここから少年二人だけの冒険行となるわけで、豹《ひよう》には襲われるわ、鰐《わに》は出るわ、大蛇には巻かれるわという騒ぎになる。鰐は少年たちが筏《いかだ》で川を渡ろうとしている時に出てくるのだが、看板の絵のような大格闘シーンは見られなかった。  二人の少年は片方が背のすらりとした美少年、もう片方が背の低いデブの少年で、三枚目的役割を演じて笑わせるのがデブの方である。演技は上手だったから本当のボーイ・スカウト団員ではなくプロの子役だろう。マクリーンを演じた俳優はカーター・ディクソンという名だが、これはまさかディクソン・カーではあるまい。  二少年は瀕死《ひんし》のアメリカ人に会い、宝のありかを示す地図を託される。その地図にしたがって歩くうち宝ものを発見、ふたりはその中から宝石をひとつだけ取って去る。そこへ定石通り悪役のアメリカ人探険家が登場。この男、紳士面をしているので少年たちは彼を信じ、宝石を見せる。  映画をここまで見た時、突然ぼくの隣りの席にすわっていたふたりの、ぼくと同年輩の少女たちが話しはじめた。 「ああよかった。やっとええ人に会えたわ」  少年たちの苦境に同情し、手に汗を握っていたらしく、ひとりの少女が溜息《ためいき》まじりにそう言うと、もうひとりが言った。 「ええ人と違うで。あの眼《め》ェ見てみいな」  宝石を見るアメリカ人の眼がギラギラ輝いている。案の定、彼は少年たちから宝石と地図を奪い去るのだ。この悪役が最後にどうなったかは記憶にない。  このあと、美少年の方が土人に捕えられ、マクリーンと一緒に部落中央の木にくくりつけられてしまう。その木のまわりで土人たちが踊りはじめる。デブの少年は土人たちと同じ藁《わら》帽子の踊りの衣裳をつけ、踊りにまぎれこんで仲間を助けようとする。このあたり、罪のない観客は大笑いである。  だが結局、デブの少年も土人に捕えられる。そしてあわやという瞬間救助隊がやってくる。  この「ヤング・イーグルス」はファースト・ディヴィジョンという、聞いたこともない会社だかプロダクションだかの作品で、製作は封切の前年、昭和九年である。輸入したのはこのての映画でいつも馬鹿当りをとる例の千鳥興業、当時のキネ旬の広告には、写真をご覧になっておわかりの如く「米國少年團聯盟創立廿五週年記念映画・米國少年團員総動員の少年冒險映画・少年團日本聯盟推薦映画などと書かれている。プロデューサーは、ジョージ・W・スタウト、原作ハリー・O・ホイト、脚本エリザベス・ハイター、監督エドワード・ローリエ、いずれも聞いたことのない名である。この映画はお盆興行直後の大勝館にかけられ、浅草一の大当りとなった。しかしキネ旬の批評欄ではほとんど無視されてしまい、紹介もほんの数行だった。 (画像省略) 「ジャングルに不時着陸した少年団員の二人が宝物を発見する話で、これにジャングルの風物の紹介が絡まつてゐる。が、これらの風物は今更特に珍らしさを感じさせられる種類のものではない。が、観客は、二人の少年の他愛ない活動振りに好意ある笑ひを洩らしてゐた。映画としては、下手なお伽噺《とぎばなし》の範囲を出ず技術も稚拙なもので、特に言ふ必要はない」  興行価値の欄には「少年団の少年が主演するジャングル映画といふことで、子供連れの観客にはうつてつけの作品である。その意味で、封切館の実績も仲々の好成績であつた」と書かれている。  さて、この八月の末、正確には三十日の午後四時ごろだが、ぼくは懐しの天五中崎通商店街に出かけた。以前取材に来て「べにや」に立ち寄った時は気がつかなかったのだが、「青空書房」はべにやの並びにあった。天然パーマのお兄ちゃんとぼくは三十年ぶりに再会した。お兄ちゃんの髪はやや後退していたが天然パーマはそのまま、音楽家のようにうしろへゆるやかなウェーヴを描いている。双方ひと眼で相手を認め、やあやあということになる。近くの喫茶店で昔話に花が咲き、あの頃のことをぼくはさらにいくつか確認した。  もしもぼくが小説家という職業を選んでいず、一般に名前が売れていなかったら、平気な顔をしてお兄ちゃんに会いに行くことができたかどうか疑わしい。父親の本を持ち出して売りとばすという行為はあの頃のぼくにとって、ある意味では万引や窃盗以上に恥かしい陰湿な行為に思えたし、今でもそう思えるのだ。というのもあの頃の真に勇ましい不良少年たちは平気で万引や窃盗をやったし、ぼくも一度万引しようと友人に誘われ、臆病さからしりごみしてしまったことがあるので尚さらそう思えるのだ。家の本を売りとばすくらいならたいていの、ちょっと不良っぽい少年なら誰でもやったことかもしれない。ところがぼくはそれが次第に昂じてついには母親の着物を持ち出して売りとばしはじめるというところにまでエスカレートしているのだ。そしてその着物を買ってくれたのも、実をいうとこの天然パーマのお兄ちゃんだったのである。たとえお兄ちゃんが「父が病気で」などというぼくの嘘を信じてくれていたとしても、こちらとしては悪事に加担させたといううしろ暗さがあるため、とても大きな顔をしては会いに行けない人なのである。その点小説家になったということは、「一般に名を知られるようになった」つまりは「有名になった」ために過去の悪事は大目に見て貰えるであろうという甘えが支えてくれることにもなり、また一方では「やくざな仕事に身を落した」つまり「水商売の道楽仕事」で生活するようになったというマイナス面があるので悪事の果ての姿として納得して貰えるという利点もある。これがたとえば大商事会社の営業部長になったというていの出世のしかたであれば、前記の二点、つまり「宣伝された形態のいびつな出世のしかた」という条件が満たされていないため、やっぱり会いに行けなかっただろうと思う。  本を持ち出して売りとばすという悪知恵が最初からあったわけではない。父親の背広の内ポケット、母親の財布などから小銭を盗みはじめたのは戦争中からのことである。この頃はまだ近くの千里第二国民学校へ通っていて、金を盗んでは主に近所の山田という同級生と一緒に吹田東宝や吹田館に出かけていた。戦争末期の昭和二十年、五年生の時のことだ。映画館の入場料もさほど高くはなく、小銭で間に合ったのである。  八月、敗戦となり、校名は千里第二小学校と変った。戦争で勝とうが負けようが子供にはあまり関係がない。あいかわらず親の金を盗み、山田、佐伯、松村といった級友たちと映画を見に行っていた。天神橋筋商店街には闇市が立ち、ぼくたちは時折この方面へも足をのばして大阪座、旭座、錦座などへ行くようになった。ただしこのころはあくまで友人たちと一緒、ひとりで出かけることは滅多になかった。  その頃、わが家の状況は最悪であった。どこの家庭でもそうであったろうが食糧不足はほとんど危機的な状態で、食べざかりの子供がぼくを頭に四人もいるわが筒井家など、いささか地獄の様相を呈していた。千里山の家というのはわれわれ一家が大阪市内から疎開してころげこんだ母方の親戚の松山家である。松山藤雄、松山幸という老夫婦とわれわれ一家とは戦後次第に仲が悪くなり、一時は出て行け、出て行かぬの騒ぎもあった。大阪市内の家は借家で、わが家が疎開したあと近藤さんという家主が住み始めていたため、今さら戻れなかったのである。そこへ松山家の親戚の木村さんという一族が次つぎと外地から引き揚げてきて座敷を占領しはじめ、わが家の六人は二階の三部屋へ追いあげられてしまった。  父はまだ動物園の園長をしていて、その関係から駐留軍の下士官らと仲が良くなり、駐留軍の食糧である干しリンゴ、干しにんじん、携帯用のブレックファスト、ランチ、ディナーといった缶詰などを貰ってきて保存していた。父親は食糧事情がさらに悪くなると予測していた為かこれらの食べものを箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しに入れて鍵《かぎ》をかけていた。ぼくは鍵を捜し出し、盗み出して食べた。父に怒鳴られたがひもじさには勝てず、またもや盗んで食べた。あのビスケットはほんとにうまかった。アメリカの香りがした。殴られてもいい、と思いながら食べたものだ。盗み食いするたびに怒鳴られたり叩かれたりしながらも、結局はぼくひとりで食べてしまったのではなかっただろうか。同じひもじい思いをしている両親や弟たちに悪いというこまやかな感情の芽生える隙《すき》はなかった。当時いくら家族の中でのいちばんの食べざかりが自分であったとしても、そのような根本的な思いやりの気持までが麻痺していたのは不思議である。  学校の状態も悪かった。疎開してきた少年たちはぼく同様、主に住宅地から通っていたが、この学校はその高級住宅地の少年のグループと、佐井寺という農村の少年のグループが一緒に通学していて、成績のよい住宅地のグループの少年は出来の悪い百姓どもの餓鬼《がき》から徹底的に苛《いじ》められた。何もしていないのに殴りつけられ、蹴倒され、首をしめあげられ、頭を土足で踏まれ、泣き出すまで許して貰えないのが日常だからひどいもので、学校へ行くのが厭《いや》でしかたなかったが、このころはもちろんまだ学校をサボるというような知恵はない。勉強もする気にならなかった。ぼくの成績は悪く、優、良上、良、可の四段階の採点方式でぼくはほとんどの学科が良、あとは良上がちらほら、図画だけが優というひどさだった。  たまたま戦争中からそれまでずっと担任だった石黒という国粋主義の教師が教頭に昇格し、修身という今の道徳に相当する学科のみの専任となり、山本という先生が赴任してきて担任となった。この先生は父親と知りあいで家も近所だったから、父親は山本先生にぼくの家庭教師をしてくれるよう頼みこんだ。家庭教師といってもこっちの家庭は前記の事情なのでぼくが山本先生の家へ夜出かけていって教えて貰うわけだが、このころのぼくは勉強がいやでいやで、まったく進歩なし、しまいには山本先生の家へ行かなかったりした。つまりその時間先生をすっぽかしたわけでずいぶん悪いことをしたと思うが、そのサボった時間、夜だというのにどこで時間をつぶしたのか記憶にない。庭の物置にでもひそんでいたのだろうか。  その次、山本先生の家へ行くと、帰りに部厚い封書を渡された。父に見せろというのだが、どうせいいことが書いてあるわけはない。家へは持ち帰ったものの便所で勝手に開封すると長文の手紙で何やら難しいくずし字が続いていて、判読可能な部分はいずれも悪いことばかり。びりびりに引き裂いて便所に流したが(千里山の家は戦前から水洗便所だった)ずいぶんひどいことをしたものだ。もし今度山本先生にどこかで出会ったら土下座して詫びなきゃならん。  この件で父親に叱られた記憶はないから、きっとうやむやのうちにすんだのだろう。というのはそのころ父親は、やっとぼくの学校環境のひどさに気がつき、市内の小学校に転校できるよう運動しはじめていたからだ。その結果、やはり父親の知りあいで堀という先生が校長をしている大阪市内の中大江小学校へ、六年生の一学期の中ごろから転校することになった。担任は谷脇という先生。父につれられてはじめて中大江小学校へ行った時、この谷脇先生と堀校長が五年生の時のぼくの成績を見て「うちの学校ではとてもこれだけのいい成績はとれませんよ」と言ったからぼくは驚いた。さすが市内の学校だ。程度が違うらしい。こんな悪い成績すらとれそうにないとは。  ところが意外なことに、中大江小学校における最初の成績は体操の良上を除いてあとはオール優。たちまちトップ・クラスの三人の中へ入ってしまったのだから自分でも驚いたくらいだ。上品な船場の子なども混えて生徒は市内の商店の子が多く、いじめっ子などひとりもいない。谷脇先生はベテランで授業は面白い。焼け跡へまだ引き揚げてこない人が多いから、生徒は一学年ひとクラスで四十人足らず。まったく努力しなくても環境だけで成績があがったようなものである。とにかくそれまでの環境がひどすぎたのだ。おまけに生まれてはじめての男女共学。女の子の中にはとびきりの美人もいる。しぜんとやる気を起してしまったのだろう。  この時期、ぼくはあまり悪いこともせず、小学校卒業まではいい子で通してしまっている。阪急電車三十分、市電三十分で片道一時間という通学所要時間も通学コースも中学時代とさほど変らないのだが、まだ寄り道もせず、学校をサボってもいない。  調子のいい時はいくらでも調子が出てくるもので、たまたま大阪市の知能テストを受けるとなぜか百七十八という知能指数が出て特別教室に編入されてしまった。これは大阪市内の知能の高い生徒四十人ほどを集めた学級だが、最初の日、他の生徒に紹介される時の担任の島津先生のことばで、自分がトップの成績であることがわかった。特別教室は小学校の授業が終ってから中大江小学校の一室で開講され、中大江からはぼくを含め男生徒二人、女生徒一人が受講した。あとの子は市内の各校から放課後、三三五五やってくるのだ。ここでは島津先生が夏目漱石だの「もののあはれ」だのといった講義をし、佐藤先生が初歩の代数の講義をした。特別教室の校長はやはり堀先生。おまけに佐藤先生も島津先生も市の教育委員会の関係で父親とは親しい。このため後では父にとってもぼくにとってもずいぶんいろいろと具合の悪いことが起ってくる。  特別教室の生徒たちは、小学校を卒業すると全員まとめて東第一中学校へ入れられることになった。堀先生も中大江小学校からここの校長へ転任となり、島津先生、佐藤先生も一緒だった。中大江小学校の同級生も全員この中学校へやってきた。われわれは新制中学の第一期生だった。  なぜ、中学へ入るなりぼくの不良化が突発したのかよくわからない。小学校に一年足らず通学して市内の様子がのみこめてきたため、どこへでも平気で行けるようになったからかもしれない。特別教室ですでに代数をやり、英語も少し父から教わっていたので、中学校の授業がずいぶん初歩的に思えて退屈だったから、そのせいかもしれない。ちょうど成長期にさしかかり(ぼくの身長が急に伸びたのは中学一年の時である)腹いっぱいうまいものが食いたいため、またしても両親の金を盗みはじめたのがきっかけだったのかもしれない。どちらにしろ買い食いのために金を盗んだのと、映画を見るために金を盗んだ時期とはこのころに一致している。食べものは高価だし映画の料金だって戦前とは比較にならぬほど値あがりしているからもはや小銭というわけにはいかぬ。したがってこの時期、ぼくが父親の背広や母親の財布から抜きとったのは主に十円札であった。食べものを買い、それを映画館に入って食べるに適した金額だった。それとて最初のうちは五円札だったのだ。しかし物価はどんどん値あがりする。映画館もロードショーや封切館の入場料がどんどんあがる。うまそうな食べものが出まわりはじめ、これもやはり高い。一方、両親の方ではぼくが金を盗むことを知り、警戒しはじめたために盗みにくくなる。そこでしかたなく本を持ち出しはじめたというわけである。  最初、二、三冊の本を鞄に入れ、売る店を物色しながら天神橋筋商店街を六丁目から五丁目の方へ歩き、一軒の古本屋を見つけたが、ひどく安い値段を言われた上、もう一冊の方はいらんから持って帰れなどと言われ、腹を立ててさらに他の店をさがしながら五丁目までやってきて、やっとお兄ちゃんの露店を見つけ、ここで買ってもらった。お兄ちゃんとの出会いであって、この時から着物を持ち出すまでの期間は一年足らずであった。 [#改ページ]  エノケンの「どんぐり頓兵衛」  戦後、封切館が戦前の古い映画を再上映する場合はニュー・プリントだったが、二流館、三流館になると戦前のフィルムをどこからか捜し出してきてそのまま上映していた。そのため雨降りがひどく、しかもコマとび、ブツ切れのひどい状態で、ストーリイなども皆目わからなかったものだ。たとえば「雪之丞変化(大会)」や「大菩薩峠(第一篇)」などは吹田東宝のブツ切れ上映を見たのだが、この二作と同じ昭和十年に作られた「どんぐり頓兵衛」の方はニュー・プリントだったおかげでほぼ完全な姿のものを、例の天五中崎通商店街の旭座で見ている。 「雪之丞変化」はご存じの通り、三上|於菟吉《おときち》原作による女形役者雪之丞の復讐譚《ふくしゆうたん》だが、衣笠貞之助の監督によって林長二郎の新しい魅力が発見され、大評判となったことは前にも書いた。あいにくぼくが見たものは映画の形骸《けいがい》であり、そのおどろおどろしい歌舞伎的な雰囲気(撮影・杉山公平)によって、ストーリイがわかりさえしたらどんなに面白いものであろうかという想像をさせたに過ぎない。  記憶しているのは、敵《かたき》の前へ雪之丞がだしぬけに般若《はんにや》の面をかぶって出てくるカット。鬼面人を驚かすというがこれがスクリーンいっぱいに大写しになった時はさすがに物凄く、ぼくの隣席で見ていた少年など椅子《いす》の上で二、三十センチとびあがっていた。  もうひとつは雪之丞の乗った駕籠《かご》が悪人どもに取り囲まれるシーン。ここへ闇太郎(林長二郎二役)がやってくると、観客席では拍手する人がいた。ぼくはなんとかストーリイをつかもうとして二、三回見たのだが、毎回必ずこのシーンで拍手する人がいたから、きっと当時は昔の映画だの原作だのでストーリイを知っている人が多かったのだろう。いかに苦労しても、あのズタズタ映画だけではストーリイなどわからず、拍手もできぬ筈だ。なにしろ第一篇、第二篇、解決篇の三本の映画がごく短時間で連続上映されてしまったのだからそのひどさ、おわかりになろう。  その後どんな話かと思って文庫本で原作を読んだが、泥絵具を塗りたくったような俗悪さで、特に、映画では伏見直江が演じた軽業お初のエロティシズム描写には子供心に辟易《へきえき》した。映画が原作よりも上品になった稀《まれ》な例ではあるまいか。 「大菩薩峠」のズタズタ振りもみごとだった。机龍之助(大河内伝次郎)に斬り殺された巡礼の老爺《ろうや》(横山運平)にとりすがって泣いているお松(深水藤子)のシーンからすぐ、龍之助と宇津木文之丞(黒川弥太郎)の奉納試合のシーンにとんでしまうのだ。この試合のシーンはカメラ(谷本精史・松村禎三・竹村康和)が龍之助と文之丞へかわるがわるズームするという変な手法をとっていたのでよく覚えている。  この映画は「雪之丞変化」とほぼ同時に封切られて当時の人気を二分した。原作者中里介山がなかなか映画化を承諾せず、やっと承知したと思ったら今度は容喙《ようかい》はげしく、剣術師範までつれてきたり(武道考証・高野弘正)したために監督(稲垣浩・応援監督山中貞雄・荒井良平)も苦労したらしい。それだけに映画化を待ちかねていたファンがどっと押しかけたのだろう。 (画像省略)  この映画にも高勢實乗が一カットだけ出てきた。ひげもなく、「あのねオッサンわしゃカナわんヨ」の名|科白《せりふ》も言わなかった為に最初は誰だかわからなかった。役は十八文の道庵先生という剽軽《ひようきん》で諷刺的な医者。とまっている駕籠の中から身をのり出し、世間を煙《けむ》に巻くような警句をひとくさり。喋っている途中でほじくった鼻糞を地べたの砂にこすりつけたりするから観客は大笑い。喋り終らぬうちに駕籠かきが立ちあがり、歩き出したので道庵先生ころげ落ちそうになり、「ほいっ。ほいっ」と言いながら片手でぴょんぴょん地面を支えて行く。  島田虎之助は現代劇専門の二枚目岡譲二だった。ラストはこの島田虎之助の大立ちまわりを蔭で見ていた机龍之助が立ち去って行く夜のシーンだったと記憶している。主演者は他に、ぼくの記憶にはないがお浜が入江たか子、宇津木兵馬が沢田清、近藤勇が中田弘二といったところ。 「どんぐり頓兵衛」はこの二本に遅れて十二月末にP・C・Lで完成、翌昭和十一年の正月第一週に封切られている。「エノケン十八番・どんぐり頓兵衛」と映画のタイトルにあったから当然エノケン一座が上演して好評を得たものの映画化と思えるが、キネ旬のスタッフ欄ではP・B(ピエル・ブリアント)文芸部とP・C・L文芸部の両者が原作・脚色にあたったことになっている。エノケン映画としては「青春酔虎伝」「エノケンの魔術師」「エノケンの近藤勇」に次いで四作目である。  四作目、と書いたがこれはあくまでエノケンが浅草で名を売り、一座を率いるようになってからの話で、実は昭和の初期、ほとんど無名に近かったエノケンは数本のサイレント映画に出演している。たとえばキネ旬の昭和二年八月中旬号「各社近作映画紹介」欄には東亜甲陽映画「謎の指輪」が紹介されていて、配役序列《ビリング》四番目に「飢えたる青年 榎本健氏」と書かれている。「一」が抜けているが、スチール写真を見るとあきらかにエノケンである。  エノケンがP・C・Lで撮った「どんぐり頓兵衛」までの前三作は、キネ旬で読んだ限りでは批評家の評判がよくない。いずれも舞台のエノケンとの比較の上で評価されていて、すべてにわたりエノケンの真価は発揮されていないという語調の評だ。この「どんぐり頓兵衛」、キネ旬では滋野辰彦氏が「前作『近藤勇』から見ると、多少良い作だつたと言へるだらう。いくらか映画的に消化されて来たところがあるからだ」と評している。監督はエノケン映画を数多く作った山本嘉次郎。撮影は山口淳。音楽は栗原重一。  今となっては古色|蒼然《そうぜん》としか言いようがないが、われわれにとっては懐しい軽快なルンバのBGMでタイトルが出、ほんの数カットのスタッフ、キャスト紹介のあと、「さあてお立ちあい」と口上を述べているエノケンの顔のクローズ・アップでアイリス・イン。どんぐり頓兵衛(榎本健一)が蟇《がま》の油を売っている。口上を聞く「お立ちあい」の中に乾分《こぶん》団九郎(二村定一)と甚十郎(田島辰夫)の顔も見える。さて口上が終り、客がわれもわれもと蟇《がま》の油を買って行く。客が散ったあと売上金をかぞえる頓兵衛のところへ団九郎、甚十郎はじめサクラになった連中が次つぎと代金を返して貰いにくる。頓兵衛の手には一|文《もん》も残らぬという最初のギャグ。  なんとか他の商売を考えなければ、と考えながら町を歩く頓兵衛たち三人。と、前方にいた娘が頓兵衛を手招きする。親分、いい娘があなたを呼んでますぜ。おれには自信がある、女にもてないという自信だ。そんな会話をエノケンと二村定一が小唄調の歌で掛け合う。案の定、娘が手招きしたのは頓兵衛たちの背後にいる数人の娘。この手招きした娘はワン・カットしか顔を見せなかったが、のちに「エノケンの法界坊」でおくみを演じたエノケン一座の宏川光子である。  以後、会話はしばしば当時の流行歌やジャズ・ソングの替え歌で行われるが、これは初期のエノケン映画の多くがミュージカルとして作られていたからだ。もっともぼくはエノケン映画を見てまったくミュージカルを意識しなかった。それほどストーリイに歌がうまくのっていたからだ。現在の喜劇映画からはこのミュージカルの伝統は欠落してしまっている。したがってぼくは前記滋野氏の「ミュージカル物として唄や音楽の使用法、これはいはば今以つて最も初歩の形態に止まつてゐて、進歩の跡はうかがへなかつた」という評には反対である。滋野氏はアメリカ映画を念頭に置いて評したのであろう。「ただ二村定一の唄は思つたより軽く、悪い感じを与へぬものであつた」これは賛成。  さて頓兵衛が思いついたのはインチキの居合抜き。乾分二人にインチキのやりかたを教える場面。長い刀は頓兵衛が抜くと同時に甚十郎がうしろから鞘《さや》を引き、まっぷたつにする南蛮鉄の鉢は最初からふたつに割れている墨を塗った陶器という打ちあわせ。だが、呑《の》みこみの悪い乾分たちにあきれて悲鳴をあげ、頓兵衛はぶっ倒れる。  インチキ図にあたり、小屋掛けして演じた居合抜きは大入り満員。最後には三人が音楽にあわせてのんびりした殺陣《たて》を演じる。ここへやってきてこれを目にとめたのが豪傑の鬼熊八十郎(如月《きさらぎ》寛多)である。当国の主君杉平一本太夫(入江俊夫)の命を受け海内無双の豪傑を捜していたのだ。ここで八十郎と頓兵衛の、禄高についての交渉があり、もう一声、もう一声とねばった頓兵衛はとうとう三千石まで禄を吊《つ》りあげ、召し抱えられることになった。  頓兵衛たち三人は八十郎の主人である家老深見頼母(柳田貞一)の邸へ案内され、馳走《ちそう》にあずかる。頓兵衛の腕前を試すため催される御前試合で頓兵衛と戦うことになった文之丞(市川朝太郎)も出てきて頓兵衛に挨拶する。酒宴がすすみ、ここで家老が「さぞかし多くの武勇談がおありであろう。ひとつご披露《ひろう》願えまいか」と言う。しからば、と頓兵衛立ちあがり、乾分二人を相手に、音楽にあわせて仕方咄《しかたばなし》、山賊退治の一席をやるのだが、このあたり、子供だましの踊りや歌に立派な家老や豪傑が感心しているのはとてつもなくおかしかった。  酒宴の行われている座敷から中庭をへだてた一室は家老の娘、梢《こずえ》(高尾光子)の部屋である。乳母《うば》の松の木(清川虹子)に、恋しい殿御は、と訊ねられ、梢は障子を細目に開いて座敷を指さし、左から四番目のかた、と恥かしそうに言う。左から四番目にはもちろん文之丞がいるのだが、頓兵衛の仕方咄はまだ続いていて、今度は化物退治の一席を、当時流行した「一目見た時」の替え歌でやっている。「ねえねえ愛して頂戴ね」という例の歌を、頓兵衛に化物退治を頼む村人たちの科白に変えて歌っているわけである。 「※[#歌記号、unicode303d]日暮れになるとお化けが出るのよ。知らずしらずに顫《ふる》えてくるのよ。ねえねえ退治て頂戴ね」  踊りながら文之丞の隣りにちょこんと座ってしまう。今度は松の木が障子の隙間《すきま》から覗《のぞ》くと、左から四番目にいるのは頓兵衛なので、なんと物好きな、とあきれるが、あのかたならまかせておきなさい、と胸を叩く。  その夜、酔った頓兵衛を松の木は梢の部屋の前までつれていく。障子を細目にあけ、頓兵衛にラブ・レターを渡す梢。彼女の姿をちらと見た頓兵衛、魂を抜かれて寄り目になってしまう。  いよいよ御前試合の当日。カメラはロングで試合場の張り幕。頓兵衛たちが入って行き、すぐにひゅーっぽんという音。どっとあがる笑い声。葬送行進曲。頓兵衛の乗った担架をかつぎ、団九郎と甚十郎がしおしおと出てくる。そのあとを見送り、インチキめと罵倒する家老。八十郎。文之丞。  梢の部屋。間違いがわかり、「いかにわたしが物好きとて、あのような者を」と笑いあう梢と松の木。  頓兵衛たちの塒《ねぐら》。病の床に伏している頓兵衛を介抱する乾分二人。頓兵衛は二人に梢の恋文を見せ、自分の病いが恋患いであると告白する。ここで頓兵衛は、突拍子もない音程で※[#歌記号、unicode303d]寝ては夢起きてはうつつ幻の、水に映りし月の影、手に取れざると知りながら、ぐっしょりと濡れてみたいは人の常、恋は思案の帆掛け船とやら、と歌い出す。この歌は「エノケンの法界坊」で歌われるものと同じで、歌詞も「梢」が「おくみ」に変るだけである。※[#歌記号、unicode303d]そういううちにも甚十郎、そなたの顔がどうやら梢に見えてきた。さほどに執心ならばと、乾分二人も協力を誓う。  のこのこと梢に会いにやってきた頓兵衛、松の木にさんざいたぶられ、鬼熊八十郎に追いまわされる。この八十郎と頓兵衛の追いかけで縁側をドタドタと踏み鳴らす足音がちゃんとBGMのルンバのリズムになっている。  それなら梢をさらってしまおうというので街道沿いの松林の中で待ち伏せる頓兵衛たち。駕籠がやってきて乾分二人がばらばらととび出し、駕籠かきは逃げる。だが、乗っていたのはなんと松の木。林の中を逃げていく頓兵衛。  またしても家老の邸へやってきた頓兵衛。今度は深見頼母に、なんと梢殿を拙者の嫁には下さらぬかと泣きつく。そのしつこさに立腹し、頓兵衛と取っ組みあいになった頼母、自分の抜いた刀であやまって自分を斬り、死んでしまう。びっくりした頓兵衛「抜いたなら抜いたとなぜ言わぬ」と愚痴《ぐち》るがもう遅い。こうなってはこの国にいることができないというので乾分二人と共に他国へ逃げ出す。  国ざかいの橋のたもとまでやってきた頓兵衛たち三人。頓兵衛はふり返り「※[#歌記号、unicode303d]恋しやさし梢さんを一生見ることできないかァ」と歌い出す。「AMONG MY SOUVENIR」という曲で、「想ひ出」としてエノケンがレコードに吹きこんだものの替え歌だ。これに二村定一がからみ、掛けあいで歌う。  家老の邸では大騒ぎになっていて、梢と、すでに梢の婿となった文之丞、それに松の木、八十郎の四人が、仇討ちの旅に出る準備をしている。  柄にもなく敵と狙われる身となった頓兵衛、あいかわらずインチキ芝居の旅を続けている。ある宿では生神様御宿などと貼《は》り出し、病人をなおして見せたりする。むろん病人になるのは乾分である。たまたま気の狂った娘を本当に全快させてしまい、泊り客に信じられてしまう。ところが同じ宿に梢たちの仇討ち一行が泊っていて梢が癪《しやく》を起し、頓兵衛たちの部屋に担ぎこまれてきたから大変。頓兵衛は文之丞たちに宿屋中を追いまわされる破目となる。このシークェンスにおけるエノケンの逃げっぷりはみごとである。階段を駈けのぼり、手摺りを越えてとびおり、また駈けあがって大きな梁《はり》をつたって走るといった具合で眼まぐるしく、エノケンの面目躍如。梁の上を逃げまわるカットなどはカメラが据えっぱなしで俯瞰している。  もうお気づきであろうがこの話、シチュエーションとしては「研辰の討たれ」である。滋野氏もこう書いている。「……どんぐり頓兵衛は研辰だと言つたが、ここでは陽気な一面の性質だけ強調されて、卑屈な小胆さは明瞭でない。だから仇として討たれんとする段になつて、卑屈を丸出しにするところは甚だ不自然の感がある。此の性格の両面といふものは、むづかしいに違ひないが、一方が欠ければ一方も消えてしまふといふ因果を持つて居るのだから、双方くるめて一つ物として描いて行かねばならぬのである」  しかしこれは無理な注文であろう。新国劇ではないのだしエノケンは辰巳柳太郎ではない。われらがエノケンはやはりあくまで陽気なエノケンであってほしいのがファン心理でもある。臆病であるのは構わないが卑屈であっては困るのである。ただし、この批評に発奮したのかどうかは知らないが、エノケンはのちに「研辰の討たれ」を上演している。見ていないが、どのように演じたのであろう。(調べると、なんと「どんぐり頓兵衛」以前に上演している)  さて、逃げ続けてとある国にやってきた頓兵衛、その国の城主出目井玉之守(榎本健一二役)の忠臣大石持上太郎(金井俊夫)によって城主の替え玉にされてしまう。殿様となった頓兵衛は奸臣毒虫駄左衛門(中村是好)や愛妾《あいしよう》お玉の方(伊達里子)から命を狙《ねら》われることになり、藪井竹庵(山形凡平)の調合した毒薬をのまされそうになったりする。ここでは毒薬と砂糖の区別がつかなくなり、竹庵が自分で作った毒薬を試しに舐《な》めてみて死んでしまうギャグ・シーンが入る。  頓兵衛はまた、城主という立場を悪用し、自分を追ってやってきた梢たち一行を捕えて牢《ろう》に入れたりするが、やがて一味の悪事が露見、本ものの殿があらわれて頓兵衛はまた逃げ出す。梢たちに追われ、ついに神社の祭礼のまっただ中に追いつめられていよいよ討たれそうになる頓兵衛。と、突然梢が産気づき、一同仇討ちどころではなくなる。頓兵衛もお産を手伝い、見世物小屋を駈けまわって晒《さら》しだの盥《たらい》だのの調達に大活躍。お産が無事に終れば今度は城主の家臣に追われ、頓兵衛たち、またもやすたこら逃げて行く。  さて今回は、これを書く為にたいへん小林信彦氏のお世話になった。その小林氏と正反対の意見となるので小林氏にはまことに悪いのだが、ぼくにはこの「どんぐり頓兵衛」、どうしてもエノケン映画の最高作だとは言えないのである。エノケンの持ち味は十二分に発揮され、ストーリイもがっちりできているしペーソスもある。だがギャグが不足なのだ。この点は滋野氏と同意見になるのだが、せっかくの一人二役も笑いとならない。いずれ書くつもりだが鮮明に記憶に残っているギャグの数では「エノケンの法界坊」の方がはるかに多かったのである。 [#改ページ]  エンタツ・アチャコの「あきれた連中」  中学時代、面白い映画だとぶっ続けに二度も三度も見たものだが、そのため帰宅が遅くなり、学校を怠けて映画を見に行ったことがばれてしまって父親から叱られ、その金をどうして得たかを問いつめられたものである。この「あきれた連中」を見た時も家に帰ったのが十時ごろになってしまい、ひどく叱られた思い出がある。 「あきれた連中」は梅田地下劇場で上映されていた。画面が鮮明だったからニュー・プリントだったのだろう。しかも大阪で上映されているのはここ一館だけだった。東京でも、戦後は上映されなかったらしい。梅田地下劇場がこのフィルムをどうやって入手したのかは謎《なぞ》である。とにかくそういうわけなので当然のことながら笑いを求める観客が殺到した。皆がいかに笑いに餓《う》えていて、他に良質の喜劇がなかったかを物語っている。  その日、この「あきれた連中」を、ぼくは二度も三度も見たわけではない。学校へはちゃんと登校し、放課後見に行ったのである。もし観客が鮨詰《すしづ》めでなければ最終回の前の回を見てさほど遅くならずに帰宅できたのだが、なにしろ立錐《りつすい》の余地もなく大人どもが押しあいへしあいしているので入館してすぐの回はスクリーンが眼に入るどころの騒ぎではない。ロビーにまではみ出している大人どもの隙間隙間を縫《ぬ》って徐々に観客席の方へもぐりこんで行き、どうにか画面が見えるところまでたどりついた時にはその回は終り。で、まともに見られたのは最終回だけであった。  この梅田地下劇場は比較的広い映画館だったのに、同じような理由から前後三回、ひどい目にあっている。三回とも帰りが遅くなり、三度目にはついに父親から折檻《せつかん》を受ける破目に陥るのだがそれはあとの話。一度目がこのエンタツ・アチャコ、二度目がロッパ、三度目がエノケンというのも、ぼくにとっては象徴的なのである。その頃の、日本を代表する喜劇役者たちの喜劇を見ている間の夢のような楽しさ、家へ帰るまでの罪悪感、帰ってからの叱責《しつせき》、その心理的苦痛、天国と地獄のように対照的な虚構と現実がぼくをますます映画少年にし、のちには演劇青年にさせていったのではなかっただろうか。  深夜に帰宅することになったこの三回の梅田地下劇場行きが、なぜ放課後だったのか記憶にない。まだ学校をサボタージュすることを思いつかぬ時期だったのかもしれない。あるいはそんなに毎日学校をサボってばかりはいられなかったのかもしれない。または上映開始時間がひどく遅く、とても時間つぶしができないと思ったのでとにかくいったん登校したのだったろうか。  梅田地下劇場は切符売場とモギリが地下一階にあり、そこからさらに地下二階へ降りるのだが、階段を降りてみるとどのドアからも大人たちがはみ出し、全員背のびして見ているのでびっくりした。ドアが開いたままなので映画のせりふや音楽、観客席の笑い声が大きく聞こえてくる。わあわあ笑っているのでもうすぐ終りだろうとたかをくくっていたのだが、じつはこれが始まったばかりだったのである。一時間ほどしてから、入れ替え時間になっても中へ入れないかもしれないと思い、これはいかんと大人の身体の間をぐいぐい押し拡げていちばんうしろのドアから中へ入っていった。大人の中にも背の低いやつがいて、見ているやつに様子を訊ねたりしている。「拳闘やっとるか」「やっとる。やっとる」こんな満員ぶり、今ではもうお眼にかかれないだろう。興行主にとっては黄金時代だったに違いない。  映画は終り、人がぞろぞろと出て行く。最終回、さすがに人は減る。それでも立見がぎっしり。無論ぼくも立見。前の方では舞台の上にあがっているやつもいる。口論が起る。舞台の上のやつが振り返って相手を睨《にら》みつけ、怒鳴る。「なんやねん。文句あるんか」あきらかに朝鮮人。相手は黙る。  上映のベル。ニュース映画に続き、いよいよ「あきれた連中」がはじまる。今でも口ずさめるあのBGMでタイトル、スタッフ、キャストの字幕。(『エンタツ・アチャコの「これは失禮」』の章参照) 「あきれた連中」はP・C・Lと吉本興業の提携第一回作品だった。P・C・Lスタジオで撮影が開始されたのは昭和十年の十二月五日。撮影は暮の三十一日まで続けられ、新春は五日より撮影開始、完成するなり一月十五日の正月第三週に日劇で封切られた。大阪は十四日敷島倶楽部、十六日朝日会館で封切。キネ旬の「撮影所通信」を見ると、このころの映画はみんなこのようなあわただしさで封切られている。今でも似たようなものらしい。封切館の成績は「順調」だったそうである。 (画像省略)  字幕が終ると公園の場面。中央にベンチがひとつ。のっけからカメラは据えっぱなしである。ベンチには会社をくびになった石田(横山エンタツ)が腰かけている。そこへ保険外交員の藤木(花菱アチャコ)がやってきて隣りにすわる。石田も藤木も、共にエンタツ・アチャコの本名である。アチャコ、煙草に火をつけ、一服する。これを見てエンタツが声をかける。 「あのう、すみませんが」 「へえ」 「マッチ、お持ちじゃないですか」 「あ、マッチ。へえ、どうぞ」  アチャコはエンタツにマッチの箱を渡す。エンタツはマッチの軸を側薬面に立てて指ではじき、次つぎと火をつけて遊びはじめる。これを見てアチャコ、気が気でない。 「もし。あんた」 「はあ」 「あんた、煙草|喫《す》いはるんと違うんでっか」 「ああ。煙草ォー、ください」 「なんや。煙草ないんかいな。けったいな人やなほんまにもう」  アチャコ、ぶつくさ言いながら煙草を一本エンタツにやる。ここから二人の、漫才もどきの身の上話が始まり、ふたりは知りあいになる。こうしたカメラ据えっぱなしの漫才場面は篇中あちこちにちりばめられていて、批評家からはいい評を得られなかったものの、結局これ以後のエンタツ・アチャコの映画に欠かせぬものとなった。エンタツ・アチャコがなかなか台本通りのせりふを喋《しやべ》らないので、監督はしかたなくカメラを据えっぱなしにし、二人に好きなようにやらせたらしい。監督はP・C・Lに入社したばかりの岡田敬で、これが入社第一作、及びそれまで山本嘉次郎のアシスタントをしていた伏水修が監督に昇進しての第一作、つまり共同監督である。撮影は鈴木博、音楽は紙恭輔。  原作は現代漫才の進歩に貢献し、つい先ごろなくなったあの秋田實。この原作、おそらくエンタツ・アチャコのアド・リブの面白さを熟知している秋田實のことだから、ごく簡単なものだったのだろうと想像できる。そのままでは映画にならないと判断したらしく、P・C・Lでは別に永見隆二に脚色させているからだ。「こない仰山《ぎようさん》せりふ憶えなあきまへんか」エンタツ・アチャコがそう言って反撥《はんぱつ》したらしい。きっと全部台詞を書いてしまっていたのであろう。  エンタツ・アチャコが洋服着用、歌なしのインテリ漫才として人気を博し「早慶戦」「象の卵」「花嫁の寝言」などのヒット作を放っていたのはこの映画が作られる数年前だった。エンタツがボケ、アチャコがツッコミだった。だが吉本興業では営業政策として二人にそれぞれ別の相手役をつけた。   千歳家 今男   花菱アチャコ   杉浦エノスケ   横山エンタツ  これが、この映画が作られた当時の、高座でのコンビである。映画や放送では二人のコンビを再現したわけだが、高座の方ではエンタツ・アチャコのコンビは以後ほとんど見られなかった。  さて、公園で話しているうちに二人は昔からの友達同士であったように思いこんでしまう。さっそくカフェーで乾杯ということになる。「カフェー・ブラック」という名のこの店には藤木が惚《ほ》れている清美(堤真佐子)がいた。石田もこの清美をひと眼見て好きになってしまう。ところが清美は黒川(リキー・宮川)という男に惚れている。店で鉢あわせをした藤木と黒川が喧嘩を始める。「表に出ろ」ということになり、二人は通りへ出る。カフェーのガラス窓。通りへ出た藤木と黒川のシルエット。黒川のアッパーカットで藤木が倒れる。店の中でこれを見ていた石田、「よしっ。義を見てせざるは勇なきなり」と叫び上着を脱ごうとする。周囲の者があわててとめる。黒川はボクサーだったのである。  このカフェーの場面の雰囲気はまことに昔懐しい。まだ幼稚園に行くか行かないかの幼いぼくを、どう思ったか父親が一度だけ新世界のカフェーに連れて行ってくれたことがあった。女給からちやほやされていたかすかな記憶がある。そのカフェーそっくりのムードだった。  堤真佐子はP・C・Lの看板女優。お義理にも美人とはいえず、鼻が丸くてぽっちゃりと肥っていて、今ならどこにでもいそうな娘だが、当時はこういう娘がたいへんモダーンだったわけである。戦後この映画で彼女を見たぼくにさえ現代的な明朗さとモダンなセンスを感じとることができたくらいである。後段、石田と藤木から愛を打ちあけられ、ぱっと両手を拡げ上を見て「まあすてきー」とオペレッタ調にうたいあげるシーンなど、はっとするほどの新鮮さだった。現代感覚を売りものにしていたP・C・Lの娘役ナンバー・ワンであったこともうなずける。  リキー・宮川は恰幅《かつぷく》のいい二枚目で、体格はいいのだが当時の二枚目がたいていそうであったようにのっぺりとした顔をし、ポマードでこってりと髪をうしろへなでつけていた。ぼくはこの映画でしか見ていないのでどういう俳優なのかは知らない。(のち、色川武大氏から歌手であると教わった)  石田はその晩から藤木のアパートに食客としてころげこんでくる。石田は以前から拳闘のファンで、自分は講義録を読んだだけで免許皆伝になったつもり。藤木も石田を拳闘選手に仕立てあげて黒川に復讐しようと考える。隣室にはスポーツ・ファンのマキ子(神田千鶴子)がいた。三人はある貧弱な拳闘倶楽部へ石田を売りこみに出かける。ところがその倶楽部のマネージャーは以前石田が追い出された下宿の親爺吉岡(徳川夢声)だった。吉岡はいつまでも女房(清川虹子)の尻《しり》に敷かれていることはないと発奮し、この拳闘倶楽部を作ったのだが、もはやつぶれかかっている。  さっそく石田の腕をテストしようというので、石田はリングの上に立たされる。と、ロープをくぐってあらわれた相手は禿頭《はげあたま》で髭を鼻下にたくわえた巨漢。今でいうならレスリングのグレート東郷みたいな男である。石田はびっくり仰天、逃げ出そうとするがつれ戻され、リング中央に突きとばされる。しかたなく眼を閉じたまま屁《へ》っぴり腰で風車のように両腕をぐるぐる振りまわす石田。やがて石田は片膝をキャンバスにつけ、めくら滅法ぐーっと右を突きだす。このジャブがみごと巨漢の腹に入る。案外だらしのない巨漢で、そのまま腹を押さえて倒れてしまう。吉岡は石田の手を高だかとさしあげる。きょとんとしている石田。  この映画における拳闘シーンのエンタツの演技はすべて絶妙であった。だいたいぼくは喜劇役者として、後年の人気とは逆にアチャコよりもエンタツを高く評価する。戦後ペーソスで売ってまともな芝居の演技者としても珍重されたアチャコにはそもそも新派悲劇指向があり、喜劇役者としてはそのとぼけ味やせりふのおかしさだけが持ち味であった。しかしエンタツは違った。彼にはあきらかにドタバタ喜劇指向があり、動きの面白さを相当深く研究していたふしがはっきりとうかがえる。ロイド眼鏡をかけ、チャップリン式チョビ髭をはやしていたことからもわかるように、彼はロイドやチャップリンの映画に日参し、その動作を研究していたという。前記リング上での屁っぴり腰など、のちにキドシンこと木戸新太郎がよくやったような珍妙きわまりないものであったし、すべての動きが軽妙で新鮮だった。その上、絶讃を博したエンタツ・アチャコのコンビによる初期の漫才の台本はすべてエンタツの自作であったという。こういうことを知らなかったらしく、キネ旬では友田純一郎氏がこう評している。 「原作者はエンタツにちんぴら拳闘家の役柄を与へた。チャップリンのさむざむとした痩身《そうしん》を想ひ出したからであらうが、映画を知らないエンタツをごまかすにいゝ想ひつきだつた」  原文では友田氏はエンタツとアチャコをとり違えて書いているが、訂正して引用した。そのことでもわかる通り、大阪の漫才であるエンタツ・アチャコのことを東京の批評家はまったく知らなかったようだ。秋田實はむろん高座でのエンタツのちょこまかとした動きの面白さを熟知していて拳闘をやらせたのである。  つぶれかかっているこの拳闘倶楽部を救うため、当時売り出しの拳闘選手ブラックをK・Oしてもらわねばならん、と、吉岡マネージャーが石田に言う。  エンタツ「ははあ。ブラックって何ですか」  アチャコ「ブラックいうたら黒やがな。白がホワイト」  エンタツ「ああ。赤がストップか」  吉岡「いや違う違う」  常に話がどんどん横へ行くのでいらいらする若き日の徳川夢声がじつに面白かった。  ブラックこそ二人の共通の恋敵《こいがたき》黒川であると知り、いっそう敵愾心《てきがいしん》を燃やす石田と藤木。以後もカフェー・ブラックの場面がしばしば出てくる。ボックス席にいる黒川に抱きすくめられた清美の悲鳴。思わずカウンターで立ちあがり、向かって行こうとする石田に藤木が声をひそめ、うしろからとめる。 「ああっ。あいつや。あいつあかん。あいつあかん。やめとけ。あいつやめとけ」  相手が黒川とわかり、歩き出していたエンタツが急にとぼけ、ふらり横を向いて胡麻化《ごまか》す演技の絶妙さ。一方吉岡マネージャーは、黒川が傍へやってきた婦人の抱いている小さな犬に驚いてきゃっと叫ぶのを目撃し、ひそかにうなずく。  カフェー・ブラックのシーンのほかエンタツの珍妙きわまりないトレーニング・シーンなどがあり、いよいよ試合の当日である。前夜清美のことでやけ酒を飲み、二日酔いの黒川。だがさすがにプロの貫禄、第一ラウンドではみごと石田をダウン。コーナーに戻った石田、さし出された水の瓶にしがみつき、吐き出さずにそのままごくごくと全部飲んでしまう。第二ラウンド。黒川のフックを腹に受けた石田、飲んだばかりの水をぴゅーっと口から噴き出させる。顔一面に水を受け、辟易《へきえき》する黒川。このラウンドで突如石田はインファイターと化し、別人のようなすごい形相で黒川に迫って行く。たじたじとしてコーナーに追いつめられる黒川。第二ラウンドは石田の圧勝。第三ラウンド。もはや石田はふらふら。ふたたびダウン。レフェリーのかぞえるカウントにあわせ、コーナーの藤木がのんびりとやけくそ気味のかぞえ唄を歌う。石田は立ちあがれずノックアウト。  ぼくはここで当然吉岡が黒川の犬嫌いを利用して何かの作戦を実行するのであろうと期待していたのだが、石田がいよいよ負けそうになってから吉岡が観覧席を見まわし、遠くに小さな犬をつれた人を発見し、借りに行くだけなのである。これはやはり、本来吉岡が犬を用意しておくべきところである。すでにK・O勝ちしてコーナーに戻っている黒川に犬を見せ、黒川を気絶させるという単なる意趣返しではギャグにならない。脚本の不手際である。  ラストはファースト・シーンと同じ場面。ふたたび失業した石田がベンチにひとり。藤木がやってくる。初めて出会った夜のことなどを話すうち、旧友どころか見ず知らずの他人だったことを思い出す。ここで二人は立ちあがり、漫才となる。カメラは二人にトラック・アップ。そしてエンド・マーク。この幕切れの漫才は「心臓が強い」「忍術道中記」でも使われた手法である。 「あきれた連中」はギャグの豊富さではのちの「これは失禮」「新婚お化け屋敷」などの傑作に及ばない。それでも十二分に面白かったのはエンタツの功績だろう。戦前のエンタツ・アチャコ映画ではあくまでアチャコはエンタツの引立て役だった。戦後しばらくしてアチャコは人気を得、エンタツは省みられることがなかった。ドタバタは年齢、体力に関係してくる。さらにまた日本人のウエット好み。ドライなエンタツは早過ぎた喜劇役者だったといえるかもしれない。 「あきれた連中」がぼくを夢中にさせたのは戦前のよき時代の雰囲気だった。カフェーのシーンだけではない。たとえばアチャコのアパートの場面なども完全に洋風であり、ベッドが置いてあるのだ。晩年、不遇のうちに病の床につき、喋ることさえ不自由になったエンタツは、昔の話をされるたびにおいおい泣いたという。「あきれた連中」に彷彿《ほうふつ》とさせる古き良き時代のことを思い出してではなかっただろうか。 [#改ページ]  「海賊ブラッド」 「海賊ブラッド」を見たのは千日前のアシベ映画劇場だった。現在この映画館のあった場所には珍妙|奇天烈《きてれつ》な惹句《じやつく》の立て看板で一時有名になったアルサロ「ユメノクニ」がある。 「海賊ブラッド」が日本で最初に封切られたのは昭和十一年五月、日劇においてである。六月に入って新宿の大東京、大阪の敷島倶楽部、京都宝塚劇場、神戸阪急会館、名古屋宝塚劇場等で封切られている。いずれの館でも大変な盛況であったらしい。  この昭和十一年の上半期には今の映画ファンがよだれを垂らしそうな名作、問題作、珍作がいっぱい封切られている。その中で、のちにぼくが見た映画では「白き処女地」がある。この映画は戦後四ツ橋の文楽座でやったフランス名画祭で見たのだが、この時ぼくはすでに高校二、三年生もしくは大学生になっていて、つまり青年になっていたわけなので、タイトルに背くことになるから紹介は省略する。ただひとつ、鮮明に記憶に残っているシーンは、ジャン・ピエール・オーモン扮する都会の青年が、恋人ジャン・ギャバンに死なれたばかりのマドレーヌ・ルノオ扮する田舎娘に、都の華やかな生活を語って気を惹くシーン、二人が立っている場所から遠望できる背景の雪山が突如一転、二重焼付で都会の光景に変るシーンである。キネマ旬報ではデュヴィヴィエのこの二重焼付多用に文句をつけていたがぼくには刺戟的だった。のちぼくは小説の場面転換にこの効果をずいぶん多用することとなる。  マックス・ラインハルトがワーナーで作った「真夏の夜の夢」は十年ほど前テレビの深夜劇場で見た。したがってこれも省略。今でも時おりテレビでやっているようだ。封切当時のキネ旬では不評なのだがぼくにはたいへん面白かった。キャストの豪華さに眩惑《げんわく》されたのかもしれない。比較的読者にお馴染と思える俳優だけを書いても、ジェームス・キャグニイ、ディック・パウエル、大口のジョー・E・ブラウン、オリヴィア・デ・ハヴィランド、妖精パックの役にミッキー・ルーニー、その他当時の人気スターがジーン・ミューア、アニタ・ルイズ他十数人も出ているのだ。スタッフではウィリアム・ディターレが監督としてラインハルトに協力している。シェークスピアの原作にずいぶん忠実な映画だった。ぼくは大学時代、パックを演じたことがあるが、パックのせりふもまるまる原作通りであった。  マルクス兄弟がそれまでの四人から三人になり、会社もメトロに変っての第一作「オペラは踊る」はつい最近小林信彦氏のお世話で見せてもらうことができたが、なにしろ今年のことなので当然これも省略。  ジャック・フェーデの「ミモザ館」をぼくは見ていないのだ。戦後何度も上映された筈なのになぜ見ていないのだろう。  ヒッチコックがはじめてとばしたヒットである「三十九夜」もこのころに封切られている。その他トーキーになってからのロイドの最高作といわれる「ロイドの牛乳屋」だの、ルネ・クレールの「幽霊西へ行く」だの、フランク・キャプラの「オペラ・ハット」だの、今でもよく話題になるこのころの名作を見ていない。ぜひ見たいものだ。テレビの深夜劇場さんよろしくお願いしますよ。もしかするとやったにかかわらずぼくが見逃したのかもしれないのだが、そうだとすればさらに何度もやって頂きたいものである。  日本映画でもこのころには傑作が生まれている。すでに紹介したエノケンの「どんぐり頓兵衛」やエンタツ・アチャコの「あきれた連中」もこの時期だし、小津安二郎の「大学よいとこ」、前進座の「河内山宗俊」、伊丹万作の「赤西蠣太」など名作がいっぱい。  古川緑波がはじめて本格的に映画で主演した「歌ふ弥次喜多」という珍作もあり、ぼくはこれを不良少年時代に梅田地下劇場で見ているのだが、題名や、共演がビクターの徳山|※[#「王+連」、unicode7489]《たまき》であることからもわかる通り、ただ二人が当時の流行歌をうたうばかりの映画なので、ここでわざわざ一回分を費して紹介することもあるまいと思い、省略した。それでもぼくは十年前に流行したというそれらの曲をほとんど知っていたので充分楽しめた。「お江戸日本橋」「カチューチャ」「一目見た時」「君よ知るや南の国」「恋はやさし」「島の娘」「ストヽン節」「私のラバさん」「月は無情」「籠の鳥」「涙の渡り鳥」「草津節」「青空」「東京音頭」「君恋し」「ダイナ」「道頓堀行進曲」「出船の港」「箱根の山」「ヴォルガの舟唄」「安来節」「富士の白雪」といったような歌であって、ほとんどは今でも折にふれ歌われる曲ばかりである。舞台で好評だったので映画にしたのだそうだが、ギャグはほとんどなく、開巻早早弥次と喜多が自慢の歌くらべで美声を聞かせた娘がじつは唖《おし》で聾《つんぼ》だった、というようなギャグがある程度。喜多八を追いかけまわす宿屋の女中でおくんという醜女《しこめ》を、今や川口松太郎夫人の三益愛子が演じていた。彼女、もともとは喜劇女優なのである。  エロール・フリンの海洋活劇を見るのは「シー・ホーク」に次いで二度めだった。「鉄腕ジム」もすでに見ていた。だからエロール・フリン映画の陽気さ、喜劇性はよく承知していた。「海賊ブラッド」の看板を見ただけで胸ときめかせたのはぼくだけではなかったろう。活劇に餓えた他の同年代の少年たちも同じだったと思う。 (画像省略) 「海賊ブラッド」原題「CAPTAIN BLOOD」が製作されたのは日本封切の前年昭和十年である。監督はすでにヴェテランであったマイケル・カーティス。イギリス人のエロール・フリンはそれまでアメリカの舞台に出ていてほとんど無名だったが抜擢《ばつてき》され、これが初めての映画出演。東京生まれのオリヴィア・デ・ハヴィランドもやはりイギリス人でこの時はデビューしたばかり。同じ年にワーナーに入社したばかりですでに「真夏の夜の夢」と「頑張れキャグニイ」に出演していた。むろん妹のジョーン・フォンテーンの方はまだデビューしていない。 「中世紀の中頃、英国では羅馬《ローマ》カトリックと新教徒、ホイッグ党とトーリー党の対立、加ふるに王位継承問題が起きて国内は騒然たるものがあつた」  深夜、猛烈な勢いで馬をとばして行くファースト・シーンで早くもどぎまぎしてしまう。開業医ピーター・ブラッド(エロール・フリン)がやってきたのは国王ジェームス二世に対する叛乱《はんらん》で負傷したギルドイ卿《きよう》(ダニエル・D・オーバーン)の邸。これを治療したのが崇《たた》って彼は逮捕されてしまい、大審院長ジェフリイ卿(レオナード・ムーディ)から西印度へ奴隷として流刑に処せられてしまう。奴隷船の船底で鞭打たれながら櫂《かい》をこぐ例のシーンは映画ファンならお馴染であろう。ブラッドと共に流刑にされた人たちの中にはのちにブラッドの手下となるハグソープ(ガイ・キビイ)、ジェレミイ・ピット(ロス・アレクサンダー)、ウォルバーストーン(ロバート・バラット)など、のちのエロール・フリン映画でも活劇ファミリイとして活躍する連中がいる。この映画ではガイ・キビイ老がのちのアラン・ヘール老に相当する役柄で笑いをふりまいている。  音楽はレオ・フォーブスタイン。岸松雄氏はキネ旬でこう評している。「奴隷に売られる囚人を乗せた船がやがて目的の地に着く。重々しい音楽がしづかに流れて来る。囚人たちは鉛のやうな足を運ぶ。すると音楽の上に更に無慈悲な鞭の音が加はるのだ。重苦しい音楽と鞭の音とは、次に待つてゐる奴隷の哀れな境遇を怖しくも暗示するやうにひびく。レオ・フォーブスタインの音楽処理の力強さが発揮されてゐると見た」  ジャマイカ港での奴隷の競売シーン。ここでブラッドは、非道な農園主ビショップ大佐(ライオネル・アトウィル)の姪アラベラ(オリヴィア・デ・ハヴィランド)の眼にとまり、十ポンドで買われる。オリヴィア・デ・ハヴィランドの美しさ、ういういしさ、可憐さはまさに筆舌に尽し難い。エロール・フリンも若く、やや頼りなげで、後年少女暴行事件を起したり、「日はまた昇る」で酔っぱらいのビル役を好演したりした頃のあの図太さはない。  ジャマイカの知事スティード(ジョージ・ハッセル)は痛風だった。アラベラはブラッドを医者と知ってその治療をさせる。痛風がなおり、おかげでブラッドは公医に任命される。  このくだり、岸松雄氏はこう書いている。 「奴隷のひとりが脱走を企てて露見し烙印《らくいん》を捺《お》されるところがある。その苦痛に充ちた表情。悶絶《もんぜつ》せんばかりの叫び。かくの如き苦痛があるであらうか。と、この島の知事の顔だ。そしてかくの如き苦痛があるものかと哭《な》くのである。これは不思議、何一つ不自由なき知事にして此の言ありとは。実に知事が痛風の苦痛を訴へての言葉なのであつた」岸松雄氏、この話法にしきりに感心している。  原作はラファエル・サバチニの大衆小説だが、サバチニの小説の主人公はみな剣の達人という以外に何らかの特技を持っている。たとえば「スカラムッシュ」も弁論の達人であり舞台の名優である。脚色はケイシー・ロビンスン。ほぼ原作通りにやったらしくて映画は十二巻という長尺。このためキネマ旬報では飯田心美氏に酷評されることになるのだが、これはあとで紹介しよう。  ビショップの苦役に従っている連中と共に、ブラッドが脱走を計画する最初のヤマ場。一方、このころドン・ディエゴ(ペドロ・デ・コルドバ)というスペイン海賊がいて、たびたびジャマイカを襲ってはビショップや知事から莫大な身代金をせしめていた。この部分、東京朝日新聞の評にはこう書かれている。 「一味と共に脱走をはかる最初の『山』は最も迫力がありカアテイズの鋭さが見られる。然も、ぢり/\とスリルを重ねて脱走組が最早、絶体絶命となつた時、スペイン海賊の襲来。ここで緊迫感を一時に散じる呼吸も見事」  海賊が上陸している間にブラッドたちは脱走し、海賊船を占領、さらにボートで帰ってきた海賊たちを全滅させる。  東京朝日新聞評。「夜の市街の混乱にハル・モーアの撮影を用ゐて雰囲気もじつくりと浮び出され、殊に海賊船からの砲声にはミニアチュアによるトリック技術の巧緻が光りを放つてゐる」  ハル・モーアは前記「真夏の夜の夢」でみごとに幻想的な映像を生んだ名手。また特殊撮影効果は老練フレッド・ジャックマン。  ワーナーの海洋活劇シーンはいつも大がかりで面白かった。特に船上の戦闘場面など、ロングで撮られている数十人、時には百人を越す役者すべてが体あたりの演技で一刻たりとも眼がはなせず、堪能させられた。  東京朝日新聞評。「後半は海賊となつた主人公の復讐を取扱ふ。善玉が悪玉に手痛い復讐を加へると言ふ事は古来小説に映画に最も大衆向きの定石であり、この映画もさういふ意味では屡々《しばしば》『溜飲』を下げるやうな布石が用意されてゐる」  戦いのあと、ブラッドが掠奪《りやくだつ》した船で大海原に乗り出し、マストへ新たに例の髑髏《どくろ》マークの海賊旗をかかげて、以後海賊となる宣言をするところでは観客はワーなどと叫んで大喜び。すごい活劇があったばかりというのにいよいよこれから本格的に面白い話が始まるわけで、歓声があがるのも当然。この「海賊ブラッド」に比べれば「シー・ホーク」は巻数も少く、したがって活劇場面も少く、物足りないぐらいだったのだ。ところが飯田心美氏はそのえんえんと続く活劇場面がお嫌いであったらしい。 「延々十二巻にわたる長さは、よほど耐久力の持主でなければ見終ることの出来ない恐るべきコクメイさと無味な場面羅列をスクリーン上にくり返して、二時間以上もわれわれを苦しめるのである。長篇ものかならずしもわるいといふのではなく、題材によつては、長尺もまたやむを得ん次第であるが、このやうな原作に、これだけの尺数を費すことは、まさに観客泣かせと言はざるを得ない。されば、一言もつて、これを片付けるならば、興行企画に巧く、実際の映画化に拙劣なりしものと言ひたい。(中略)監督マイケル・カーティスはただその疲れを知らぬ絶倫の精力におどろくのみ、依然として変らぬその鈍根ぶりには呆れさせられるばかりである」 「赤本趣味ながら娯楽映画として見応へある佳作」という東京朝日新聞の好意的な評とは違い、たいへんな怒りかただ。このあたり、「見応えがある」とか「堪能させられた」とかいうのと、「退屈で苦痛であった」というのとは、その映画にのめりこめるかどうかのほんの僅かの差ではないかという気がする。たとえば退屈だなあと思ってだらけきって見ていた映画でも、ちょっとしたきっかけですうっと中に入りこめ、あとは時間の経過など忘れてしまうものだ。  苦痛だった人がいる一方では、ぼくのように終るのが惜しいと思いながら見ていた観客もいる。ぼくだって今この映画を見せられたらどう言うかわからないが、他の名作に対するこのころの批評家のきびし過ぎる発言から察すれば、やっぱり今でも夢中になるだろうという気がする。このころの批評家、まったくきびしかったのだ。  ブラッドは海賊として全盛を誇った。ここでブラッド一味の襲撃場面が何カットか挿入される。例の、船から船へ何十本もの帆綱でブラッド一味がいっせいにとび移るシーン、甲板上の乱闘、ブラッドのみごとな剣さばきなど。やがてブラッドはフランスの海賊ルヴァッスール(バジル・ラスボーン)と同盟を結び、掠奪品は分配することにした。しかしブラッドは彼を信じきれずに尾行する。ルヴァッスールの船は英国船を襲った。その船には英国からの帰途にあるアラベラと、新しい国王ウィリアムの代表者ウィロビイ卿(ヘンリイ・ステファンソン)が乗っていた。ルヴァッスールは掠奪品をひとり占めにしようとし、美しいアラベラにも眼をつける。アラベラ危うし。そこへブラッドが乗りこんできて剣を交え、ルヴァッスールを倒す。  これでもう活劇は終りかと思っていたらまだあるのだから凄いサーヴィス精神だ。  ブラッドはウィロビイ卿とアラベラを丁重にもてなしたので、ウィロビイ卿はすっかりブラッドに惚れこんでしまう。ウィロビイ卿は海軍士官として新国王に仕えるようブラッドにすすめる。すでにブラッドに恋しているアラベラは彼に、叔父のビショップがジャマイカの知事になっていて、軍艦を出動させブラッドの行方を捜していることを教え、ジャマイカへは近づかないでくれと頼んだりする。  折しも英仏が戦争状態となり、ジャマイカにもフランスの軍艦がやってくる。知事のビショップはブラッド退治に出かけて留守。ブラッドはウィロビイ卿と共にジャマイカへ急行し、大海戦の末フランス艦隊をやっつけてしまう。ブラッドはジャマイカの知事に任命され、戻ってきたビショップは逮捕されてしまう。むろんブラッドとアラベラは結ばれてHAPPY END。  スクリーンに映し出されている綺麗な女優を眺めながら映画館の暗闇の中でこっそりオナニーをすることには異常なスリルと快感があった。今にして思えばあれはコイトス以上の快美感ではなかったか。中学一年で早熟のぼくは思春期のまっさかり。前後十回足らずではあったが、そういう秘密のいたずらを行っている。館内がいくら暗くても大っぴらにやったのでは周囲の観客にわかってしまう。学校を怠け早朝から入館しているので二階席には誰もいない。二階席では誰はばかることなく大っぴらにできたわけである。ただしなにぶん映画のことなので、射精寸前に悪漢などの顔がクローズ・アップで出たりする。それは具合が悪いから調整、微調整が困難を極めた。むろん二度、三度と見た映画でなければそんな調整はきかない。  この「海賊ブラッド」でオリヴィア・デ・ハヴィランドを見ながらオナニーをしたかどうかは記憶にない。しかしこのアシベ映画劇場の二階席でやったことだけははっきり記憶している。(「エノケンの千万長者」の章参照)射精したとたん精液が意外な勢いで宙にとび、一階席へ落下したのだ。館内の闇の中をスクリーンからの光の反射できらきら光りながら弾道軌跡を描いてその白いものは一階席のど真ん中あたりに消えた。そんなに勢いよく噴出するものとはそれまで思ってもいなかったのでぼくはびっくりした。階下の席のざわめき。  アシベ映画劇場の入口を、首をすくめるようにして、寸づまりの国民服にねずみ色の頭陀袋、無帽の少年が逃げるようにこそこそと出て行った。不良少年時代のぼくの姿であった。 [#改ページ]  「モンテカルロの銀行破り」  たとえば箪笥《たんす》の小《こ》抽斗《ひきだし》、たとえば薬戸棚、たとえば針箱、こういうものの底の方を捜すといろいろながらくたに混って小銭が落ちている、そんな家庭がぼくの理想であった。つまり相当古い大きな家で、各部屋には古い家具があり、よく物を買うので小物がやたらにあり、こまかい金銭には比較的無頓着という、地方の旧家などによくある家庭である。幼年時代のごく僅かの期間ではあったがぼくの家庭はそれに近かった。不良少年時代、映画を見る金をほしくてしかたがなかった為、そんな理想像が発生し、現在に至るまで尾を引いているのかもしれない。現在では妻の実家がこの状態であり、ぼくの家庭もやや理想像に近づきつつある。小銭といってもほとんどが一円玉である。この一円玉というやつ妻の財布の底ですぐ一杯になる癖があり、これはスーパー・マーケット等で一円玉の釣銭を貰《もら》う為であろう。十円玉も混っているから必要な時はここからひょいひょいとつまみ出す。一円玉で蛙《かえる》の腹のように膨らんだ妻の古い財布やハンドバッグが家には三つ四つある。徹底的に捜索をすればもっとあるかもしれない。時おりは百円玉も混入しているからパチンコに行く時などはここから拾い出す。と、いうようなわけで最近はご機嫌なのである。四十歳も過ぎたというのに子供っぽいことであり、嘆かわしい。  終戦直後には百円はもちろん十円も五円もすべて札であったから、箪笥の抽斗を捜したって硬貨などあるわけがなかった。一銭玉、十銭玉ぐらいはあったかもしれないが、そんなもの何の役にも立たぬ。それすら戦時中の「供出」とやらいう愚かな習わしでほとんど出してしまっていたに違いない。馬鹿ばかしい。あんな小銭で飛行機が飛ぶものか。  したがって金をくすねるのはほとんど母の財布、父の背広の内ポケットからであった。しかしインフレは嵩《こう》じて映画の入場料もどんどん高くなり、母の財布からの一円札、五円札ではとても間に合わなくなってきた。それ以上の高額紙幣を盗めば母にはたちまち悟られるのだ。給料日前ともなれば父のポケットにだってこっちが心細くなるような金しか入っていず、そんなものを盗めばたちまちばれてしまう。盗んだ日の朝など、父がよく指に唾して札をかぞえ、おかしい、少い、少いと呟《つぶや》いていたことを思い出す。「おい康隆」と声がかかるのではないかと、はらはらどきどきしながら知らぬ顔をするのにけんめいであった。  父の給料日など嬉しかったものだ。のちには百円札をくすねたが、給料日の次の日だとそれでもばれなかったのだ。しかし給料日ばかりを待ってもいられない。本を持ち出して売っても例の天然パーマのお兄ちゃんはせいぜい数円でしか買ってくれない。そこでついに母の着物を箪笥の中から持ち出して売りとばしたのである。 (画像省略)  最初に盗みだした着物は母が着ているのをそれまでにもよく見かけた絞染めの羽織である。もっとも、箪笥から盗み出したのは家人が寝静まった深夜で、暗かった為それがどういう着物かまったくわからず、いったん箪笥の上へ抛りあげておき、朝がた登校時に例の頭陀袋《ずだぶくろ》の鞄《かばん》の中へさっと押しこんだ時ちらと観察したに過ぎない。それが着物もしくは売りものとして値打のあるものかどうかさえまったくわからなかった。天神橋筋五丁目へやってきて母に売ってこいと命じられたといういつもの嘘を言いながら天然パーマのお兄ちゃんに見せると、お兄ちゃんはいささか困った顔でしばらく着物を裏返したりして眺めていたが、結局数十円で買ってくれた。思っていたよりいい値であったが、もちろん着物の値打そのものよりはぐっと下まわる額であったに違いない。しかしぼくにとっては大金で、これで見たい映画を数本見、うまいものを買って腹をふくらませるという豪遊をやったのである。当時、空腹の度合いは敗戦の翌年あたりほどひどくはなかったが、うまいものに餓えていたのだ。そしてうまいものは闇市場にあふれていて、これは幼年時代に食べたそれらうまいものの味を記憶していて、しかも食べざかりだったぼくの前に大きな誘惑となって立ちはだかっていたのだ。  金を見ると映画や食いものにしか結びつかず、実際映画や食いものの為にのみのべつ金欲しい金欲しいと思い続けていたぼくにとって、一千万フランという大金が出てくる「モンテカルロの銀行破り」という映画はずいぶん刺戟的だった。最初ぼくは新聞広告で見たタイトルから、てっきりギャング映画に違いないと思い、ずいぶん期待して見たのだが、内容は大人のお伽話プラス恋愛物といった小味なプログラム・ピクチュアに過ぎなかった。原題は「THE MAN WHO BROKE THE BANK AT MONTE CARLO」と、えらく長い。それにしても原題邦題共にずいぶんまぎらわしいタイトルをつけたもので、これでは誰だってギャング映画と間違う。キネ旬試写評でも飯島正氏がこう書いている。 「最初に断つて置くが、『モンテカルロの銀行破り』の主演者ロナルド・コオルマンはモンテカルロの銀行などを襲ひはしない。彼はモンテカルロの賭博場で、胴元がすつかりやられてしまふまで大金儲けをするに過ぎない。尤《もつと》も、儲けたことにかけては、銀行泥棒をしたのと大差ないかも知れない。金額にして、ざつと、千万フランばかり巻き上げた上、彼はさつさとパリへ帰つてしまふのである」  原作はイリヤ・スルグーチョフとフレデリック・アルバート・スワンの合作による戯曲。これをハワード・エリス・スミスとナタリー・ジョンソンが共同で脚色した。監督はスチーヴン・ロバーツ。撮影はアーネスト・パーマー。昭和十年、20世紀フォックス製作。日本での封切は昭和十一年の六月である。  ロナルド・コールマンは「心の旅路」での名演技や、コールマン髭《ひげ》の名の由来と共にわれわれの世代の誰もが知っている男優である。小松左京の「日本アパッチ族」には、鉄を食う人間たちの出現に呼応して石炭を食う連中も登場するが、この連中がすべてコールマン髭を生やしていたという駄洒落《だじやれ》ギャグがある。大阪式の笑いを理解できない評論家がこのギャグを悪ふざけとして貶《けな》していたが、もはやコールマン髭の由来さえ知らぬ若い読者もどんどんふえつつある。  ロナルド・コールマン。英国生まれ。十六歳で父に死なれたあと汽船で給仕をしていたが、三十歳でアメリカ移民となり映画や舞台に出演した。名女優リリアン・ギッシュの眼にとまり、ヘンリー・キング監督に紹介されてから運が向いてきた。まさにイギリス紳士といった風貌と芸の持ち主で、この映画に出演する迄《まで》には「ホワイト・シスター」「ステラ・ダラス」「ボー・ジェスト」といった評判作に主演している。  例の如くキネ旬により略筋《あらすじ》を追う。 「うらぶれて巴里でタクシイの運転手をしてゐるロシアの貴族ポウル・ガラール(ロナルド・コールマン)は自分の貯金と、同じロシアの貴族で今はコックやウェイターや書記をしてゐる友人達の貯金をかき集め、それを持つてモンテ・カルロへ現れ、のるかそるかの勝負を張つた」  一分《いちぶ》の隙《すき》もない身だしなみでポウルが賭博場へやってくるところが面白い。でかいトランクを持ってくるのだ。最初からトランク一杯の金を持って帰る気でいるのである。このトランクを預ったクローク係は中味がからっぽらしいので怪訝《けげん》な顔。ポウルは最初の賭け金を倍、倍に張っていく。たちまちチップの山。人だかりは黒山。ずいぶん大きく勝ったところで、さらにこれを全部賭けて倍にしようというのでカジノの裏方は大あわて。金はあるのか、などと騒いでいる。ポウルはまったくのポーカー・フェイス。いささかも興奮した様子は見せない。このあたりコールマンの面目躍如たるものがある。ついに勝負に勝ち、人びとの見まもる中、ポウルは一千万フランという大金をトランクにぎっしり詰めこみ、平然として立ち去って行くのだ。 「そして嘗《かつ》て敗れた事のないモンテ・カルロの賭博場は彼のために散々の目に会ひ、ポウルは巨万の富を得て、凱旋将軍の如く意気揚々と列車に乗つた。列車内で彼は父親と一緒に乗つてゐるヘレン・バークレイ(ジョーン・ベネット)といふ美しい娘に会つた。ポウルは一目見てすつかり彼女に心を奪はれてしまふ」  ジョーン・ベネットは姉のコンスタンス・ベネットより五つ歳下で、戦前は姉妹スタアとして人気があったという。コンスタンスの方はフラッパア専門だったらしい。ジョーンは下唇をちょいと突き出して拗《す》ねたような顔がお得意の、日本人好みの可愛らしさを持った女優である。戦後は「花嫁の父」「可愛い配当」「俺たちは天使じゃない」等で主婦役、母親役をつとめていたが、やはり娘役時代の美しさで記憶されるべき女優だ。ほんとにもう、可愛かったんだから。  パリに帰ってきたポウル。映画ではここで初めてポウルの正体が明かされる。それ迄はカジノの連中も映画の観客も彼を大富豪のガラール様と思っている。 「巴里へ帰つて友人達に金の分配を済ますと、彼はヘレンの後を追つてスウィスの山中へ行き、二人は互ひに親しい仲となつた。ところがヘレンはヴォードヴィルの歌姫で、ポウルが賭博場から得た金を何とかして取り戻すため、賭博組合に頼まれて彼に近づいた女だつた」  そういう女であるからして、ポウルをより夢中にさせる為、じらせるなどの手管《てくだ》を使う。つまり最初は彼を嫌うふりをして、インターラーケンのホテルに着いて彼が近づこうとしても逃げてばかりいるのである。ヘレンはアルプス登山に出かけ、ポウルもあとをつけてゆく。スキーが停まらなくなって悲鳴をあげるヘレン。ついにざざざざ、と崖から落ち、宙吊りになってしまう。宙吊りといっても地上から数十センチのところで足をぶらぶらさせているだけだ。ベルトをはずそうとするがはずれない。そこへポウルがやってくる。ヘレンの有様を見てゆっくり話せるいい機会とばかり、にやにや笑いながら、宙吊りの彼女の前で葉巻をふかしはじめる。 「わたしにも一本いただけない」と、宙吊りのヘレン。  ポウルに貰った葉巻をひと口ふかし、ヘレンは気を失ってがっくりと頭を垂れる。もちろん芝居であるが、紳士のポウルはあわてて彼女のからだを肩で支え、ベルトをといて助ける。これがきっかけで仲良くなるのである。 「それに気づかぬポウルに、彼女はもう一度モンテ・カルロへ行かうとさかんに勧める。やはりロシアの旧貴族で今はポウルの召使ひをしてゐるイワン(ナイジェル・ブルース)はヘレンに疑惑を抱くが、彼女に夢中になつたポウルは何も聞入れず、勧めに応じてモンテ・カルロへ戻ることになつた。ポウルが再び賭博を始めればヘレンは組合から金を貰へるのだが、今は心から彼を愛してゐる彼女は自分の為《し》た事を恥じてポウルから姿を隠した。然し其後でヘレンは一切を告白してポウルの賭博を止めさせようと決心する。するとそれを知つた組合は賭博が済むまで彼女を監禁して了つた」  配役序列《ビリング》三番めにコリン・クライヴの名がある。ヘレンの片棒をかつぐ彼女の兄の役であるが、まったく記憶にない。たしか、姿を消したヘレンを捜すポウルに、彼女はモンテカルロへ行った、などと告げる役どころであったと思う。 「ポウルは始めの内は勝つて勝つて勝抜いた」  またしてもトランク片手にあらわれた大富豪ガラール様、実はポウル。前回と同じに倍、倍と張っていき、チップをうずたかくつみあげる。黒山の人だかりである。これを倍に張ったらまたもや胴元が破産というところまで勝負する。ああ、もうそこでやめておけばよいのに、と観客に思わせる。ぼくだってそう思い、はらはらする。なにしろルーレット賭博をテーマにした映画は見るのが初めてで、代理体験というべきか、主人公以上にのめりこんでいる。ところがどうやらとことんまで勝負するというのがこのポウルの賭博哲学であるらしい。儲けた数百万フランをまたしても倍に張る。そして負けるのである。負けても平然たるもの、表情すら変えぬところがこれまたロナルド・コールマンの見せ場であろう。のちに見た「スペードの女王」のラストの主人公のとり乱しようなどとはまったく正反対。人びとの驚嘆の視線を浴びながら足どりも確かに、ゆっくりとカジノを出て行くのだ。  ここがクライマックス。あとはつけ足しで、いわばアメリカ映画的楽天主義の結末。 「然し遂に最後の時が来た。彼は一挙にして忽ち元の無一文となつて巴里へ帰り、再びタクシイの運転手となつて働いた。ヘレンは組合から小切手を貰つたが、それを破り捨てゝ巴里へ行き、キャバレの唄女となつて働いてゐた。それを聞いたポウルは友人から借りた服を着てそこへ行つた。こゝの給仕長もロシアの旧貴族だつたので、ポウルは彼の許しを得て豪遊をした。するとヘレンはポウルに言つたのである。『貴方が貧乏人だつたら私は直ぐ貴方の懐ろに飛込んだのに』ポウルは矢庭に戸外に飛出し礼服をかなぐり捨て運転手の制服で再び現れた。ヘレンがポウルの腕に抱かれたのは言ふ迄もない」  全八巻。ただし一八三四米とあるから、当時の他の映画の七巻物程度の短尺さだ。ぼくが千日前の敷島劇場で見た時はニュー・プリントでフィルムはカットされていない筈だったが、それでもずいぶん短く感じた。キネ旬の批評で村上忠久氏が「トリとするには少し弱い感じである」と書いているが、むろんぼくが見たのは敗戦直後であるから一本立て興行。あの頃は一時間ちょっとの一本立て興行でも充分客が入ったのだ。  この映画が敷島劇場にかかっているのと前後して、ロードショー館のOS劇場やスバル座では戦後第一回ロードショー映画「心の旅路」がかかっていた筈である。ロードショー料金には手が出ず、ぼくが「心の旅路」を見たのは二番館の千日前セントラルへ来てから。したがってロナルド・コールマンを見たのは「モンテカルロの銀行破り」が最初である。尚、敷島劇場は当時大劇の前にあった戦前からの洋画封切館で(戦前は「敷島倶楽部」)、現在は館内を二つにわけ、東宝敷島、敷島シネマの二館になっている。封切当時の昭和十一年、この映画は京阪神の松竹座にかけられたが、入りはまずまずであったという。  批評家衆もさほど絶讃していない。試写評では飯島正氏がこう書いている。「かういふアメリカ人の所謂《いわゆる》ロマンチックな映画としては、筋が些か単純過ぎる。映画に於いて、筋が単純であることは、望ましいことには違ひないが、それは、芸術的に方向のきまつた映画の場合の話で、劇的に筋を進めるものとしては、これでは少しばかり薄弱である。(略)この程度では、小味の良さを持つたスティヴン・ロバアツの監督も、これを救ふことが出来なかつた。しかし、流石に、賭博場内部、コオルマンとジョウン・ベネットが知り合ひになる場面、また瑞西《スウイス》に於ける二人のラヴ・シイン等の描写には、棄てがたい雰囲気が見出された。さういふわけで、この映画の主な魅力は、主役であるロナルド・コオルマンにかかつてゐる。(略)コオルマンが出てゐればこそ、最後まで僕達の興味を惹いて行くといふことは確かである。この映画の彼は、落ちぶれてパリのタクシイの運転手となつた亡命ロシア貴族である。だから、礼服を着た彼の姿が堂々としてゐても、少しも可笑しくない。そこがねらひ所でもあらう。一夜の紳士が、忽《たちま》ちかはるタクシイ運転手、さういふ所をもつとよく描いたら面白かつたらう。コオルマンは、少し老《ふ》けたやうだ。だが千両役者の貫禄は立派に備はつてゐる」 「少し老けた」も道理、もともとデビューの遅かったコールマン、この映画に出た頃は今のぼくと同じ歳である。「心の旅路」の時などは五十歳を過ぎているのだ。  村上忠久氏の批評もこれと似たり寄ったりである。「(略)之にあつては原作者も脚色者も共に、かうした人物の表面的変転をのみ描いて、富をにぎつた男の心理の動きを遂に描き得なかつた為、之は娯楽価値のあるメロドラマ程度以上には出づる事を得なかつた。(略)ロナルド・コールマンは適役でもあり、演技としても相当に良い。(略)最近のフォックスとしては佳篇に近い」  きびしかった当時の批評家にこの程度書かれたのなら娯楽作品としては傑作の部に入るのではないだろうか。またジョーン・ベネットについては飯島氏は「あまり良くない」、村上氏も「案外振はず」と書いている。しかしまああれだけ美しかったのだから、少しぐらい演技がよくなくともいいではないかと思う。現代ではブスがもっとひどい演技を見せている。あんな美人は現代にはもはやいるまい。本当にもう、可愛かったのだから。  今、ちょっとコンサイスを調べたらBANKには胴元の金、場銭という意味もあった。前言を訂正します。 [#改ページ]  「エノケンの千万長者」 「海賊ブラッド」の章で「アシベ映画劇場の二階」と書いたところ、他ならぬそのアシベ映画劇場の宣伝担当者であった小玉伸三氏からこんな手紙を頂戴《ちようだい》した。「アシベには二階席はありませんでした。アシベは昭和二十二年に建てられ、二十九年に改築されるまでは、カマボコ型のハリボテ劇場でしたから、これは、たぶん他の劇場と混同されたのでしょう」  そう言われてみればたしかにその通り、あれはカマボコの形をした映画館だった。きっと敷島劇場あたりと混同したのであろう。小玉氏は「たぶん、他の読者からも、このご指摘はあると思われますが、あえて�供給者側�からの証言として一筆いたします次第」とも書いておられるが、他からの指摘はまったくなかった。もしぼくの記憶に誤りがあれば、どうせ誰かが指摘しているだろうからなどと思わず、どんどんご教示願いたいものである。  小玉氏の手紙で有難かったのは当時の千日前映画街の「腑分《ふわ》け図」を描いて下さっていることで、これで不明だった映画館名、少くとも千日前に関しては全部判明した。第一章「モンティ・バンクス」で不明と書いたあの映画館も「アシベ小劇場」とわかった。ぼくが変態のおっさんに追いまわされたあの映画館、思った通り寄席でもあったそうで、   蝶子   五九童   十郎   雁玉  といった連中が出演していたという。「当時の芸人は貧乏でした。劇場の支配人がポケット・マネーをせびられて泣いていました。松竹芸能の勝氏もこのくちです。支配人でした」(小玉氏)  小玉氏は千土地興行の宣伝部におられたので、千日前の映画館すべてにわたって詳しくご存知である。あまり面白いのでお手紙をもっと紹介させてもらおう。 「もう時効になっていますからバラしてしまいますが、当時の劇場は貧しい恋人たちの唯一の交歓の場でもあったため�不埒《ふらち》なる行為�が常識でした。ところが劇場には必ず、これを天才的に見つける変な男がいたもので、どこへ行けばどこと�指定席�をしつらえていたものでした。ところが、前記のカマボコ型であるアシベには構造上�指定席�がなく、劇場悪ガキの不満とするところでしたが、やはり天才はいました。天井のハリ伝いに婦人便所の空気抜きを発見したのです。これは一時、千日前悪童たちの熱い関心の的になり、誰がどう聞き出すのか千客万来でありました。が、  某日、例によって五、六人のワルがのぞいている最中に天井のテックスが落下し、幸い下の佳人は怪我もなく、気がつかず、大事にならずにすみましたが、以後、この�通路�は遮断《しやだん》されました。馬鹿ですねえ」  他にも大劇地下のレジャー・センターでよく織田作之助が将棋をさしていただの、戎橋《えびすばし》小劇場がおかまのメッカで、おかま狩りが支配人の重要な仕事だっただの、面白い情報をいっぱい書いて下さっていて、こういう手紙は大歓迎である。  ところでこれから書く「エノケンの千万長者」だが、ギャグ不足であったことも手伝ってエノケン映画にしては珍しくぼくは旭座でたった一度しか見ず、そのため細部を記憶していないのだ。それでもキネ旬首っぴきで思い出し、思い出し、書くことにする。不思議なことにあらすじを熟読していると細部が浮かんでくるのだ。 「エノケンの千万長者」は昭和十一年にP・C・Lで作られ、七月二十一日に日劇で封切られている。原作はエノケン並にP・B文芸部並にP・C・L文芸部、脚色と演出が山本嘉次郎、撮影が唐沢弘光、音楽が栗原重一並にP・C・L管弦楽団、録音は山口淳。  冒頭、エノケンの説話調の歌で話が始まる。ジャズ・ソングの替え歌でやったのだろうし、聞けば当然知っていると思うが曲を失念。町の中を走っていく車の後部座席。後見人の叔父(柳田貞一)と家令の加藤(中村是好)にはさまれて腰かけている江木三郎(榎本健一)は弊衣破帽の髯《ひげ》もじゃ姿である。江木家はそもそも大富豪、三郎はその嗣子《しし》なのだが、今まで蛮カラな校風の田舎の高等学校に通っていて卒業したばかり。東京の大学に入るため上京してきたのである。高校時代の友人はやはり蛮カラの太田(竹村信夫)と小川(如月寛多)で、この二人も三郎とは別に上京してくる。この二人、しばしば口論しては殴りあう。殴りあうといっても太田が一発がんと殴ると小川が地べたを後方へくるり、くるりと二回転して立ちあがり、それで喧嘩《けんか》は終り、また並んで歩き出すといった具合で、これが蛮カラ学生の単細胞ぶりを面白く表現していた。二人は三郎が誘惑の多い東京で堕落するのではないかと心配している。 (画像省略)  後見人の叔父は三郎に大金持修業をさせようとする。財産があり余っていていくら使っても減らないので、なんとか三郎に濫費《らんぴ》させたいのだ。したがって三郎が三等の列車に乗って帰ってきたというので怒ったりする。邸に戻るとさっそく三郎自慢の美髯《びぜん》は剃《そ》られてしまった。叔父はさらに三郎の家庭教師を募集する。応募者が次つぎとやってくる。壮士風の男がやってきて演説をぶつが、声がかすれ、ふらふらしている。 「だいぶ腹が減っとるようじゃが」と叔父。 「いやなに吾輩《わがはい》は、腹など減っておってもよいから」 「いやいや。やはり腹の減っていない者の方がよい」  最後にやってきたのが与太者じみた歌手の三田(二村定一)である。テーブルの上に尻をのせウクレレを弾いて一曲歌う。叔父は大喜び。「君のような家庭教師がほしかった。採用しよう」  かくして三郎の、酒と女とウクレレの与太者修業が始まった。三田は三郎をつれてカフェーを飲み歩く。ここでぼくの大好きな懐しのカフェー風俗が出てきてご機嫌。酔っぱらった三郎、高い勘定を吹っかけられてあべこべにいちゃもんをつけたりする。三郎の与太り様《よう》を見て三田すっかり喜び「お前、いい与太者になれるぜえ」などという。  暴力バーというのは昔もあったらしく、用心棒の与太者が登場する。金を払えという与太者に、酔っぱらった三郎は「ぼ、ぼくはこの店では水を一杯飲んだだけですよ。だ、だから、ご、五銭でいいんでしょ。ね。は、はい五銭」五銭玉をさし出す。与太者が五銭玉をはたき落す。床に落ちた五銭玉を拾おうとする三郎。三郎を殴ろうとした与太者の腕が空を切る。与太者が大勢やってくる。そこへ太田と小川が駈けつける。「まかしとけ」  ワイプすると、店いっぱいにひっくり返ってのびている与太者たち。テーブルの上にすわりこんで肩で息をし、頭から湯気を立てている太田と小川。  朝帰りの三郎と三田。ひっそりとした屋敷町。道路を歩きながら三田が危い危いと叫んでいる。三郎は「私の青空」マイ・ブルー・ヘヴンを歌いながら塀の上を歩いているのだ。  このあたりのカットに山本嘉次郎監督の誤算がうかがえるのだ。エノケンの身軽さには定評があり、いくつも伝説を生んでいる。走っている自動車からとびおり、自動車と並んで走り、追い越し、自動車の鼻さきを迂回《うかい》して反対側にまわり、逆の側のドアからとびこんできたなどというのもそのひとつ。塀に向かって走り、塀に足をかけ、からだを水平にして塀に立ち、そのまま横へ走り続けたというのもある。こうしたエノケンの身軽さは舞台で演じられてこそ効果があるわけで、これをそのまま映画に持ちこんでもギャグにはなり得ないのだ。塀の上を歩くぐらいのカットならどうにでもして撮れるだろうと観客は思う。エノケンの個性におぶさりすぎて工夫を欠いたという評は免れまい。 「大学では三郎の金の使ひつぷりがいゝので人気を博す上に、運動部から見込まれて、選手にまつり上げられたりして、金を出させられる」  ラグビーの試合に出た三郎、ボールをつかんだはいいが猛烈なタックルで十人ほどに上へ乗られてしまう。他の連中がボールを追って走り去っても、まだ自分の靴にかじりついている。  野球の試合に出てフライを打ちあげた三郎、小手をかざしてぼんやり球を見送っていたが、ホームランとわかりあわてて三塁に駈け出す。  ギャグが貧困ですなあ。 「ところが、家庭教師の三田は、金がフンダンに使へるので、だん/\腕がにぶつて終ひ、つひにお払ひ箱になる。三郎には喫茶店の女給のおとしちやんといふ恋人が出来た」  おとしちゃんを演じているのが宏川光子。このエノケン一座の看板女優は法界坊におけるおくみや近藤勇における雛菊《ひなぎく》を見ればわかる如く、時代劇にはまったく向いていない。人柄のよさは出るものの本質的にはやはりモダン・ガアルであって、現代劇だとその近代的マスクと可愛らしさでもって観客を喜ばせてくれる。だいたいが丸ぽちゃ美人であるからして、時代劇の町娘や舞妓《まいこ》になると着ぶくれしてしまうし、時代劇のメーク・アップが表情をフラットにしてしまうのだ。  じつはつい先日、またしても小林信彦氏の世話で「頑張り戦術」を見る機会を得た。この映画における宏川光子がなんともいえずよかった。エノケンの奥さん役なのだが、海水浴に来て水着姿になった彼女を見たとたん眼がくらんだ。肉体美だったのである。同行した編集者T氏など「羽織っているバスタオルをさっととった時の彼女の太腿《ふともも》のあたりを見てどきっとしました」と言っていたくらいで、これが拝めただけでもずいぶん得をしたという気になり、改めて惚れなおした。この「千万長者」の女給役も、着物にエプロン姿ではあるが前髪をおろし白いヘア・タイをつけ現代的なメーク・アップをしたモダン・ガアルである。 「この純情な娘は、『いくらお金があつても働かない人とは結婚しないわ』といふので、三郎、俄然奮起して、叔父さんの会社の入社試験へ、大胆にも加藤清正と変名して乗り込んでゆかうとするが、珍しくも社長自らの試験だといふので大恐慌、急場の珍案で女装を凝らして試験を受ける」  このエノケンの女装はまったくいただけなかった。下品極まりなく猥褻《わいせつ》きわまる醜悪さ。キネ旬の批評では友田純一郎氏が「エノケンの女装のくだりを簡単に処理したのは手際がいい」と演出を褒めているから、舞台ではこの部分をえんえんとやったのかもしれない。 「そしてまんまと、『婦人服の大家』になりすまして、見事合格し、三田とファッション・ショーに共演し、生れて初めての月給金三十円也を、おとしちやんに見せて大見得を切る」  ラストはレヴュー・シーンで終るが、ぼくはP・C・Lのこういったモダンな感覚が好きだった。戦後のものよりも垢《あか》抜けていた気がする。しかし前記友田氏はやはり「貧弱に見え勝なレヴュウ的場面をかるくきりあげた」手際もいいと書いている。  この映画のその他の配役を記しておこう。いずれの出演者もまったく記憶にない。  三郎の従妹 ミヤ子  椿 澄枝  女給 お雪  高 清子  麦小路道子  北村季佐江  麦小路増麿  入江俊夫  隣りの亭主  山形凡平  その女房  若山千代  バアのマダム  千川輝美  日劇ではエディ・カンターの「当り屋勘太」と喜劇二本立てで封切った。ちょうど防空演習があったため、夜八時半終演にしたので充分観客を吸引できなかったものの、それでも初日三千五百円、日曜は四千円と上乗の好成績だったそうである。一方大阪では千日前の敷島倶楽部で封切られた。こちらはバスター・クラブ主演のご存じフラッシュ・ゴードンもの「超人対火星人」と二本立てだったというからすばらしい。こんな二本立てならぼくだってどこへでもとんでゆく。今だって行く。すぐ行く。あの館の大きさで初日千八百円をあげたそうだから超満員だったに違いない。  しかし評論家による映画評はあいかわらず悪い。少し長くなるが友田純一郎氏の批評を紹介しよう。 「エノケンの映画出演もこの作品で第六回目ではないかと記憶する。が、平常、彼の率ゐる所の劇団P・Bに親しんでゐる僕は未だ舞台以上に生彩を放つたエノケンを見出したことがないのを残念に思つてゐる。もつとも元来が舞台俳優であるエノケンであれば、なんら怪しむに足りないが、喜劇映画の主演者として豊な資質を持つ彼が映画に乗らない一事を僕は指示してゐるのである。一作毎に彼の映画が整調しつゝあることは認めるが、恰好の題材を得てエノケンの喜劇的資質が百パーセントに発揮された例はない。強ひて、エノケン映画のなかに佳作を求むれば『エノケンの団栗頓兵衛』位のものであらう。これとても、舞台の延長で、映画的な境地を拓いたとは勿論言ひ難いのである。繁忙極りなき浅草の公演と日数の制限された映画撮影と言ふエノケンの生活事情を知るものにとつては彼の映画に多くを望むのは残酷かも知れないが、少くとも舞台の延長でない企画だけは今後立案さる可きである、と思ふ。この映画を見るも、主演俳優全部がP・B系であることもエノケンを生かす手段としては当を得てゐない。座員を愛する座長的人情としては掬《きく》す可きものがあるにしても、映画出演と言ふ公式の場合にこの私情は好果を示さないのである。もつとPCLのスタッフとの共同を図つて、エノケンの喜劇を多彩にす可きが映画観衆に対する礼儀である。PCLにしても、商標向上の際かうした安易な製作態度をつゞけてゐるとサトウ・ハチロー大人にポーク・カツレツ・ラード揚げの小唄を作られますぞ!」  最後の冗談、当時の事情に詳しくないのでわからない。どなたかご教示を。  エノケンは映画よりも舞台の方がよかったとはエノケンの戦前の舞台を知るすべての人が言うせりふである。ぼくは戦後すぐ、エノケンが梅田劇場で演じた「法界坊」、その数年のち、梅田コマ・スタジアムが完成した時の記念ショウ、さらにその一、二年のちの同じく梅田コマにおける菊田一夫作「おれは知らない」の三つの舞台でしかエノケンの舞台姿を見ていない。「法界坊」は映画の方がギャグもトリックも豊富だったし、コマのショウは出演場面が少かったし、「おれは知らない」は面白かったがエノケンの面白さではなくストーリイや他の出演者の面白さであったから、戦前の浅草におけるエノケンがどれほど面白かったかは想像するしかないのである。しかしぼくのような、東京に住んでいない人間にとって、映画のエノケンは充分面白かった。というより、東京に住んでいない人間にとってエノケンは喜劇役者として日本一の「映画俳優」だったのである。  友田氏はまた「助演者では柳田貞一が抜んでてゐる。松竹座の大舞台では淡い感じがしていけないひとだが映画ではぴつたり」と褒めている。このエノケンの師匠の柳田貞一、ぼくの好きな俳優だった。私生活では酔うとからむ癖があったとかいうが、イギリスのリチャード・アッテンボローに似た独特の風格のある人で、やはりエノケン一座になくてはならぬ役者だったに違いない。  この映画は続篇が作られ、九月一日に日劇で封切られている。「続エノケンの千万長者」で、スタッフ、キャストとも前回に同じ。ぼくは見ていない。ずいぶん早く撮ったなあと思って調べたら、好評だったからいそいで続篇を作ったというのではなく、元来一篇のところのものが、あまり長すぎるので二本に分けて上映することになったといういきさつがあった。ストーリイはこうである。  馬鹿で有名な麦小路家の道子嬢と結婚するよう三郎にすすめる叔父にさからい、三郎は家をとび出しておとしちゃんと愛の生活をはじめる。だが商売みな失敗し、しまいにはバタ屋になる。そこで三郎は策を弄《ろう》し、叔父の旧悪をあばき立て、家憲改正の親族会議の末におとしちゃんと晴れて結ばれる。  広告を見ると「なんとエノケンが一人十役で学生、爺さん、婆さん、黒ん坊、赤ん坊──其他奇想天外な大活躍を演じる」とあるが、キネ旬における滋野辰彦氏のこの続篇の批評も前回と似たり寄ったりである。 「(略)然し脚本に書かれてゐるのは、弄した策の面白さではなく、やはりエノケンの身振り手振り、ワンタン屋となつて貧乏の一くさり等である。(略)もつとも前述の如き続篇であつてみれば、それも当然のこと、途切れ/\の演出もその故と知るべきであらう。正にエノケンの映画進出によつて、エノケン自身も映画も、新しいものを何一つ生んでゐない。こゝに一考を要する問題がある」 [#改ページ]  エンタツ・アチャコの「これは失禮」  なぜか「あきれた連中」の時とまったく同じ音楽がバックに流れてメイン・タイトル。 (画像省略)  というやつだが、おそらく当時のジャズ・ソングかアメリカ映画の主題曲なのだろう。このタイトル・バックの曲は途中からアメリカ映画「此の虫十万弗」の主題曲「YES SIR THAT'S MY BABY」に変る(音楽・紙恭輔とP・C・L管弦楽団)。  ファースト・シーンは場末の旭市場の全景。入口附近でチンドン屋が当時の流行曲を次つぎと演奏している。カメラは市場の中に移り、雑貨屋、八百屋、魚屋などを横に舐《な》めて行くのだが、カメラを乗せた台が揺れたのだろう、ブレがひどくて人物の顔がよくわからない。途中、一軒だけ空店舗があり、借りたい方は米屋までという貼り紙がしてあるから、米屋の主人が市場の責任者だとわかる。以下、映画は終り近くまでこの市場の中だけに終始する(撮影・吉野馨治)。  チンドン屋の曲にあわせてからだを揺すりながら肉屋の雇人(横山エンタツ)がコロッケを作っている。肉屋の主人(花菱アチャコ)も、しなを作りながらミンチを挽《ひ》いている。この店のラジオは叩いたりものがぶつかったりすると鳴り出すという変なラジオで、突如として相撲の中継をやり始める。この映画がP・C・Lで作られたのは昭和十一年、折しも双葉山の全盛時代である。ラジオにかじりつくエンタツとアチャコ。店さきに客が四人来るがラジオを聞きたいエンタツは片っ端からことわってしまう。 「コロッケください」 「まだ出来ていません」 「トンカツをください」 「売り切れました」 「お肉、ください」 「肉、ありません」  エンタツ、ひとりだけ残った男性客に、 「おたくは」 「おれ、ラジオ聞いてるんだよ」 「じゃ、ごゆっくり」 (画像省略)  いそいで戻ってきたエンタツがラジオにさわったため、ラジオは黙りこんでしまう。ここでエンタツとアチャコの相撲テーマの漫才のひとくさり。エンタツ絶妙のひとり相撲。 「ここでぐいと襟髪《えりがみ》をつかみ」 「こら。こら。相撲は裸やぞ」 「あ、そうか。冬は綿入れを」 「そんなもん着てへん」  店の前は客でいっぱい。むろん二人の漫才を聞いているのではなく、肉を買いに来ているのだ。  米屋の娘(高尾光子)と酒屋の主人(市川朝太郎)はいい仲であるが、米屋の主人(生方賢一郎)が結婚に反対している。今日も父親が出かけたあと店を抜け出した娘は物蔭で酒屋と会っている。この情景をにやにやして見ていた魚屋の女房(清川虹子)、小僧(大村千吉)が横でこれに見とれているのに気づき、「ませた子だよ」と叱る。 「今、何時や」と、エンタツ。 「六時五分やけど、あの時計は五分進んでる」と、アチャコ。 「そんなら六時やな。よし。その六時をよう憶えとけよ」店を出ようとする。 「おい。こら。待て」アチャコがひきとめる。「その言いかたはなんや。それが主人に向かっていう言葉か」 「誰が主人や」 「ぼくが主人やがな」 「ぼくが主人か。そんなら君はなんや」 「ぼくは雇人。いや違う、雇人は君や」 「君が雇人でぼくが主人やろ」 「そうや。いや違うがな。ぼくが主人や」 「ぼくが主人やいうことはわかってる。君はなんや」 「ぼくは雇人。いや違うがな」  エンタツが店を出て行った直後、倉庫に入っていた米屋の主人が何者かに襲われ、刃物で刺されて鍵《かぎ》を奪われる。やがてその何者かの手が味噌樽《みそだる》の中へ鍵をかくし、八百屋の店頭のバナナの下へ札束をかくす。  エンタツが店へ戻ってくる。「今何時や」 「六時二十分や」 「あの時計は五分進んでるのと違うか」 「そんなら六時十五分や」 「よし。その六時十五分をよう憶えとけよ」 「なんでや」 「今、ぼくは人を殺してきたかもしれん」 「そうやったら、どないやというねん」 「これをアリバイという」 「アリバイ」 「不在証明」  この部分、まことに意味のない会話で、これが何かの伏線になるのかと思っていたら最後まで何もなし。キネ旬の批評でも滋野辰彦氏が「始めの方でエンタツがアチャコに『六時十五分を記憶せよ』『この十五分に俺は人を殺したかもしれんぞ』と言ふ。この言葉が後でちつとも生きて来ないのは不注意であらう」と書いている(原作・秋田實)。  市場の中にある共同金庫が開いていて、中にある筈の大金がなくなっている。皆が騒ぎはじめる。金庫は宿直室の中にあるのだが、その宿直室のガラス戸には鍵がかかっているのだ。鍵を持っている米屋の主人は行方不明。どうにかされたのではないかと心配する米屋の娘。魚屋の女房は警察へ届けることを主張するが、八百屋の主人(三島雅夫)はまだ泥棒と決まったわけではないのだからと言い、反対する。多年研究の探偵術を発揮するのは今とばかり、エンタツは大ハッスル。市場内の勝手をよく知っている奴《やつ》が犯人に違いないからこれは即ち内部の者の犯行である、ただちに入口を閉鎖し、窓を全部閉めろという。かくて市場内の各店舗はすべて閉店し、市場は封鎖される。  天眼鏡を持ち出して探偵をはじめたエンタツ、宿直室の戸に指紋を発見する。さっそく全員の指紋をとり、照合しはじめる。 「最初は雑貨屋の奥さん。うーむ。これは違うなあ」 「あたり前ですよ。失礼な」と、雑貨屋の奥さん(三條利喜江)はぷりぷりしている。  結局誰の指紋も該当しない。気の短い魚屋の主人(小坂信夫)が腹を立て、お前の指紋はどうなんだと言う。エンタツ、自分の指紋を調べる。しばらく見くらべてから急にとぼけて胡麻化《ごまか》しはじめる。このあたりの演技のおかしさこそエンタツの味だ。 「なんや。どないしたんや」とアチャコ。「見せてみい」  二人でもう一度見くらべる。「よう似とるなあ」 「似とるなあ」 「お前の指紋やないか」  集まっていた全員、あきれて引きあげる。 「犯人は|足ぶり《ヽヽヽ》を見たらわかる」と、エンタツ。 「そぶりならわかるが、なんで足ぶりやねん」と、アチャコ。 「悪いことをしたやつは脛《すね》に怪我をしている」  アチャコ、あきれて「阿呆《あほ》なことを」 「このことは絶対、ひとに言うたらいかん」 「なんでや」 「笑われる」観客爆笑。  天眼鏡片手にあちこち調べまわっていたエンタツ、ついに味噌樽の中の鍵束を発見する。処置に困ったエンタツ、鍵束をコロッケの中に握りこんでしまう。一方アチャコも、八百屋の店頭で果物をつまみ食いしているうちに札束を発見し、食べていたバナナをのどにつめる。隠し場所に困り、とうとう冷蔵庫の中に入る。ぱたんと戸が閉まり、アチャコは冷蔵庫にとじこめられてしまう。  米屋の娘と酒屋の主人が逢《あ》いびき用に使っていた外への抜け穴を発見し、エンタツは全員を集め、点呼をとる。いないやつが犯人だというわけだが、いないのはアチャコだけ。捜すうちに、冷蔵庫のメーターの針が振れているのに気づき、全員で冷蔵庫をあける。中にはカチカチに凍りついたアチャコ。この冷凍アチャコのトリックは実にうまくできていた。 「ぬるま湯をざぶざぶぶっかけるんですよ。早く」  魚屋の女房の指示に従い全員でバケツの湯をぶっかける。氷が溶けてくたくたとくずおれたアチャコの手に札束。エンタツはびっくりする。 「さてはお前が犯人」 「君は主人を疑うのか」  この時、倉庫の扉の下から床へ流れ出している血に気づき、女店員たちが悲鳴をあげる。全員、倉庫の前へ集まるが扉の鍵がない。ここの鍵も米屋の主人が持っているのだ。鍵のありかを知っているのはエンタツだけ。コロッケを入れたトレイをかかえてうろうろするエンタツ。氷が溶けたばかりでまだ頭から湯気を立てているアチャコの前へやってきて、コロッケを食えとすすめる。コロッケをたくさん作ったので、どれに鍵束を入れたかわからなくなったのだ。 「こんな時にコロッケなんか食えるか」 「ええから食え」エンタツ、自分も食べはじめる。 「水臭いコロッケやなあ」 「しっ」とエンタツ。「これはな、うちの店で作ったコロッケやぞ」 「何。うちのコロッケ。そんならうまい」アチャコ、食べはじめてすぐ鍵束を噛《か》みあて、顔をしかめる。  エンタツ、ただちにコロッケをほぐして鍵束をとり出し、倉庫の前に駈けつける。「鍵があったぞ」  倉庫を開けると中に米屋の主人が倒れている。大騒ぎとなり、一同米屋の主人をかつぎ出して宿直室に寝かせる。  アチャコはエンタツを問いつめる。「おい。鍵を隠してたな。お前が犯人やろ。ああ、えらいやつを雇うた。強盗殺人犯とはな」と、嘆く。  米屋の娘は抜け穴から駈け出て医者へと走る。牛乳配達が牛乳瓶の音をさせていて、そろそろ明け方に近いことを告げている。この辺、喜劇としてはこまやかな演出である(監督・脚色・岡田敬)。  互いに犯人でないことがわかり、エンタツとアチャコは相談する。 「ひとつ大声で、犯人わかったぞと叫んだらどうや」と、アチャコ。「すると犯人がぱっと逃げ出す。そこをつかまえる」  やってみよう、というのでエンタツ、間の抜けた声で「犯人わかったぞう」と言う。  ぎくり、とする八百屋の主人。 「そんな声ではあかん。もっと大声で」と、アチャコ。 「犯人わかった」と叫んだ途端、床の箱につまずいてつんのめり、八百屋の主人に抱きつくエンタツ。  八百屋の主人、エンタツを突きとばす。「そうだ。おれだ。おれがやったんだ」  たちまち始まる大立ちまわり。オッフェンバッハ「天国と地獄」序曲の高鳴る中、市場の中を滅茶苦茶に引っくり返しての大捕物である。  犯人はついにガラス窓を落して外へとび出し、オートバイに乗って逃走する。これを追って走る市場の連中。エンタツとアチャコはオート三輪で追いかけようとするが、なかなかエンジンがかからない。荷台のアチャコ、いらいらする。 「おい。早うせんかいな。何してるねん」  連絡を受けた警官隊がトラックに乗り、キーストン・コップス的ドタバタでやってくる。町かどでこのトラックと出会い、犯人のオートバイは横転、ついに逮捕されてしまう。  オート三輪はまだもたもたしている。「おい。早う走らんかいな」 「ぼく、運転できないんだよ」エンタツがそう言った途端、オート三輪は急に走り出す。  煉瓦《れんが》塀を二つばかり破壊して通り抜け、道路の両側の看板を次つぎと倒しながらS字形ジグザグ運転で彼方へ走り去って行くオート三輪。「YES SIR THAT'S MY BABY」の曲をバックにエンド・マークが|W《ダブ》る。  エンタツ・アチャコ映画の大傑作である。映画出演二回めにしてこんな傑作を生んだのだからえらいものだ。ぼくはこれを吹田東宝で、はて何回見たことだろう。一日三回、二日見に行ったとしても六回は確実に見ていることになる。当時流行の探偵趣味をテーマにした秋田實の原作の功績もあるだろうが、「あきれた連中」に続き二度めの演出で、岡田敬監督が二人の持ち味を充分心得ていたからこその成功でもあったろう。昭和十一年の封切当時、この映画の人気は物凄く、キネ旬によれば大阪千日前の敷島倶楽部に於て二本立てで七月一日に封切ったところ「アスティア・ロジャースのダンス物『艦隊を追つて』と、エンタツ・アチャコの『これは失禮』と言ふ番組は驚くべきヒットであつた。当事者としても到底事前には之丈《これだけ》のヒットを予想し得べくもない、館としても近来絶無の最大好況であつた。初日先づ三千五百円に近く、日曜四千五百円をあげ、週計遂に一万七千円を越えると言ふ凄まじさであつた。之には色色の理由もあらうが、主としては此の番組編成の功であり、殊に此処としては『これは失禮』の吸引力の大であつた事は看過出来まい」という状態。東京丸の内の日劇でもワーナー映画「歩く死骸」等との併映で八月一日に封切られ「前興行『当り屋勘太』と『エノケンの千万長者』は十一日間総計約三万五千円で夏枯れを知らぬ大当りであつたが、一日替りもまた俄然物凄い観客殺到で、又々夏期興行界の凡ゆる記録を吹つ飛ばす圧倒的盛況を見せた。即ち初日の一日(土)は四千円突破、二日(日)は約五千円で、二日間で既に一万円近くを計上するの好記録である」とのこと。続映や他館での成績も上上であったという。当時のエンタツ・アチャコの人気が偲《しの》ばれる。  ただしキネ旬の批評は、前作より進歩しているとは言いながらも、まだまだ絶讃にはほど遠い。滋野辰彦氏の批評をご紹介する。 「(略)例の通りエンタツが専《もつぱ》ら活躍し、アチャコはつゝましやかにそれを受けてゐる。この前の映画でもさうであつたが、アチャコのどつしりした風采《ふうさい》をもつとよく生かすべきである。痩《や》せたエンタツの奇妙な動作は、肥《ふと》つたアチャコの味がもつとよく生かされた時、更によく発揮されるのだと思ふ。エンタツの活躍をアチャコが助けるのではなく、二人のコントラストから面白さが涌《わ》いて来なければならぬのである。もつとも漠としたアチャコの面白さは、クルクルと動き廻るエンタツよりも生かし難いものだが、エンタツの動を受けとめるアチャコの静に、原作者も監督も注意を払ふべきであらう」  ぼくも以前はこれとほぼ同意見だったが、今ではこの映画に関してはアチャコの面白さ、十二分に発揮されていたのではないかと思っている。乱闘で投げとばされ、ぐったりしているアチャコの頭上へ缶詰が次つぎと落ちてきて、そのたびにぴく、ぴくと動くシーンの表情のおかしさ。氷が溶け、頭から湯気を立てながら、なぜかアチャコがにやりと笑うところなど、何回見ても爆笑したものだ。ツッコミであるアチャコがあれ以上活躍すべきではないし、戦後のアチャコ主演映画を見ればわかるように、アチャコが全面的に活躍する映画にはエンタツの出番はない。 「この前の『あきれた連中』から見ると、二人の役柄もギャグも映画的に消化されて来た。これは確かに一進歩と言つてもよからう。前の作品では映画は時々動きが止まつて、二人の舞台の漫才を忠実に撮影したやうな場面があつた。今度は二人の掛合ひも、自然に映画の内容と関聯するやうに工夫されてゐる。たゞし作品全体としては、殺人犯人の正体を最後まで秘しておかうとする苦労も、わざとらしくて良いものではない」  最後のくだり、なぜ良くないのか意味するところが不明である。助演者の中ではいちばん光っていた犯人役の三島雅夫、これはやはり最後に自ら犯人と名乗るシーンの彼の凄さを出す為にも、真犯人を伏せておくべきだったと思う。「二、三の人を除けば、助演者もよく二人を助けてゐる」という批評だが、主演の二人を助けたという功績では清川虹子や三條利喜江の方が上位にくるだろう。三島雅夫が二人とからむ場面はほとんどなかったのだ。でもやはり、この映画の助演者といえば一番に思い出すのは彼の不気味なまん丸顔なのである。「二、三の人を除けば」というのは、棒読みに近い科白の市川朝太郎、あきらかにミス・キャストの高尾光子を指しているのではあるまいか。  何やかや難癖をつけながら、それでもやっぱり「興行価値」欄にはこう書かれている。「前の『あきれた連中』以上に面白い映画。どこへ出しても客を喜ばせるものである」 [#改ページ]  「おほべら棒」  敗戦後ニュー・プリントとなり東宝系で封切られたこの「おほべら棒」、どこで見たのか記憶にない。例によって天五中崎通商店街の旭座であったか吹田東宝であったか、おそらくそのどちらかであろう。監督は前回の「これは失禮」と同じ岡田敬、製作も同じP・C・Lだが、喜劇ではありながらもエンタツ・アチャコ映画の如きドタバタではなかった為に一度きりしか見なかった。上映館を憶えていないのはあきらかにそのせいである。  戦後見た映画にP・C・L作品が多いのは、P・C・L作品に喜劇が多かったからぼくが特によく見たということもあろうが、どうも他の会社のフィルムに比べこの時代のP・C・L及び東宝の、フィルムの保存状態がよかったからではないかと思う。他社の作品の多くは戦災で焼けてしまったか、もしくは内容が古すぎて再上映に耐えぬと思われて上映されなかったかであろう。たしかにP・C・Lの作品は明るくモダンだった。そして喜劇が多かった。この伝統は東宝にも受け継がれていて、戦前戦後を通じ日本映画の中でもぼくは特に東宝映画を好んで見ている。  余談になるが俳優修業時代、ぼくはどれほど東宝の俳優になりたかったことか。自分の喜劇役者としての才能を生かしてくれる会社は東宝より他にないと思いこんでいたのだ。あいにくその時期に東宝のニュー・フェイス募集はなく、しかたなく日活を受けてみごと落第した話はもう何度か書いたことである。  岡田敬は前作「これは失禮」を撮り終えるなりすぐこの作品にとりかかった。製作も封切も前作と同じ昭和十一年。「これは失禮」が七月一日の封切で、岡田監督は江口又吉と共同でただちに原作と脚色にとりかかり、演出し、十月一日の封切に間に合わせている。早撮りもいいところ、と思うのは現在の感覚で、当時はこれでもゆっくりしていた方なのだ。  原作といってもこの「おほべら棒」は落語ネタ、それも江戸落語の特に長屋ネタの寄せ集めである。江戸落語に詳しくないのでよくわからないが「小言幸兵衛」「稽古屋」「花色木綿」「粗忽《そこつ》の釘」「三方一両損」「豆屋」「宿屋の富」などが含まれていたようだ。以下、キャストの紹介を兼ねてストーリイを追うことにする。 「体は小さいが意地ツ張りの八公(藤原釜足)は財布を落す。それを、そのあとから通りかゝつた熊公(岸井明)が拾つて親切にも八公の長屋へ届けに出かける」  岸井明と藤原釜足は前作「唄の世の中」でジャガタラ・コンビというコンビを組んで、これが二回目の作品である。岸井明の唄、藤原釜足の芸、それぞれにいい持ち味はあるのだが、どちらも一枚看板としてはちょっと弱かったのだろう。そういえば岸井明の方は戦後も森川信とのらくらコンビというコンビを組んでいる。  ぼくにとって岸井明はあくまで「エノケンの孫悟空」における猪《ちよ》八戒である。いちばん最初に見た岸井明が猪八戒であった。本来ならモダンな恋愛ミュージカルに登場する気の弱いデブちゃんという役どころも記憶しているべきなのであろうが、あいにくそういった作品はわずかしか見ていない。とにかく「エノケンの孫悟空」という映画そのものの印象が強烈過ぎたのだ。  芸達者な藤原釜足はその飄飄《ひようひよう》とした風貌でぼくの好きな役者のひとりだった。戦後は黒沢明の作品に多く出て演技力を証明したが、ぼくにとっては「屋根裏3ちゃん」なのだ。これは戦後三、四年めに評判漫画をドラマ化して千日前の大劇で演じられたものである。藤原釜足が3ちゃん、アチャコが散髪屋の親爺、中村メイコが浮浪児というキャストだった。高い入場料を払い、映画をはさんでこの実演を二度見たが、藤原釜足の軽妙な、決してあくどくない喜劇的演技、と同時に中村メイコとからんで人情|噺《ばなし》風になり、突然客席をしんみりさせてしまうひと幕の芸には感心したものだ。このひと、戦争末期には、いやしくも大化改新の大忠臣藤原鎌足公を茶化した芸名などとんでもない(ということだったのだろうと思うのだが)というので改名させられ、藤原鶏太という名にしていた。これはおそらく名を「変《け》えた」の洒落だったのだろう。なかなか反骨精神がある人のように想像できる。 「そこの家主は口やかましいので有名な幸兵衛(徳川夢声)。さて八公の家へ行つて見ると、やつぱり落した財布のことで夫婦喧嘩の真最中(八公女房おたけ・清川虹子)。折角熊公の差出す財布を八公一旦俺の懐から出て行つたものは、二度と再び、戻らねえと威張るので、熊公受取らねえなら受取るやうにしてやる、とばかり、大もめとなるところへ、家主の幸兵衛がやつてきて、中にはひる。幸兵衛ここに大岡裁判の故智にならつて、例の『三方一両損』の裁きをやる」 (画像省略)  ポスターでもおわかりのように、この映画は岸井明、藤原釜足、それに徳川夢声の三人が主役である。夢声老、昔からこういう役ばかりであったらしい。清川虹子も同様だ。  徳川夢声はこの映画のあと、同じP・C・Lで三好十郎原作・木村荘十二監督の「彦六大いに笑ふ」に主演している。この映画、ぼくは見ていないが、夢声が当時の「新青年」に書いたこの映画の苦労話を少年時代に読んでいる。またまた余談になるがその頃の「新青年」という雑誌は部厚く、グラビア、推理小説、読み物、コラムなどが豊富で本当に面白かった。戦後、家に数冊残っていて、何度も読み返しては楽しんだものである。夢声も出席する「ナンジャモンジャ座談会」という爆笑座談会も十数ページにわたって載っていたし、コラムでは「阿呆宮千一夜」というのがあったと憶えている。座談会は最近のSF作家たちの「オモロ大放談」に匹敵するおよそナンセンスなものだ。「地球の中心は固いのかね」「柔らかいだろう。熱いんだから」「冷えているものより熱い方が柔らかいとは限らんだろう」「あるいはそうかもしれん。湯豆腐は冷や奴より固いからね(爆笑)」といったもの。古き良きナンセンス時代である。  夢声の苦労話というのは映画のラスト近く、彦六が大いに笑う場面で肝心の笑う演技がなかなかうまくいかず、困ったというもの。文章の語り口はみごとなもので、だいたい次のような内容である。 「感情を表現する時、いちばんたやすいのは怒る演技、次に難しいのが泣く演技であり、笑う演技はいちばん難しい。どうしてもうまく笑えず、何度も撮りなおし。他の役者は全員とうに帰ってしまって、広いスタジオに役者は自分ひとり、アッハッハ、イヒヒヒヒ、オッホッホなど、いくらやってもうまく笑えない。監督はじめカメラ、照明などのスタッフ連が『この大根め』という顔で睨んでいるため尚さら笑えない。何時間やったであろうか。今もあのフィルム倉庫のどこかに自分の笑っている何十フィートもの没フィルムが何巻か置かれていると思うとぞっとする。もしあれを見る人があればどう思うだろう。今でも完成された映画を見に行く気にはなれない」実際にはもっとユーモアに富んだ文章であったことは無論だ。 「仲直りした熊公、八公と意気投合して、熊公は八公の隣の家に引越してくる(熊公のおふくろ・小峰千代子)。乱暴者の寅公(春本助次郎)は、長屋ぢや幅を利かして物売りなぞをおどかしてゐるが、小唄師匠喜代三には頭が上らない。ぞつこん惚れてゐるからだ」  小唄師匠になるのが「百萬兩の壺」で櫛巻お藤になったポリドールの新橋喜代三|姐《ねえ》さん。また、寅公が物売りをおどかすくだりは落語の「豆屋」そのままである。寅公が豆屋から無法にも豆を巻上げるのを見て八公と熊公、義憤に駆られ豆屋を呼ぶ。さっきのことでおどおどしている豆屋が枡《ます》に豆を天鼓《てんこ》盛りにすると、もっとしゃくれと言う。ついには枡をさかさまにしろ、枡の底をぱんぱんとはたけ、などという。豆屋がびっくり。「あとには一粒も残りませんが」  落語だとここで「こっちも金を払わねえ」になるのだが、映画の方では寅公がとび出してきて「やあやあ。さっきはおどかして悪かった。あれは冗談」と、金を払う。落語をまったく知らなかったこのころのぼくにとってこうした落語ネタの掛合いはたいへん面白かったのだが、キネ旬の映画評ではやっぱり友田純一郎氏がよくないと書いている。  むろん、「興行用映画としては、上記主演者の他に講釈界から神田伯龍、レコードから喜代三、色物から春本助次郎等の有数な芸人が出て各々得意の芸のひとくさりを見せる上にストーリイそのものがおかしみを持つてゐるから常識的な観客には先づ文句のないものであらう」としながらも、「だが、映画を知り、席亭を多少かじつてゐるものから見ると諸芸人の使ひ方にしても、或ひは落語の映画脚本化にしても、未だ他に多くの方法が残されてゐると思はれる。言ふならば、岡田敬や江口又吉の稚拙な技術やわかさでは伝統ある寄席的世界の生かし方がどうにも食ひ足りないとは望蜀《ぼうしよく》に過ぎようか? この種の映画の持つエンタテイメンツの背後には映画にも落語にも通じた老熟味が筆者は求めたいのである。さもなくば落語世界の新鮮な映画的ヴァリエーションが欲しい」としている。 「熊公、新宅へ移つた喜びにのぼせて、隣の壁へ釘を打抜いて、却つて隣の細工師(三島雅夫)とその娘おいと(山縣直代)に近付きになる」  このくだり、むろん落語の「粗忽の釘」である。 「その細工師のところへ武士(榊田敬治)が訪れてきて、御主君の煙草入れの根つけの磨き直しを命ずる。日限をあと三日と言ひ渡される。一方八公、講釈師の伯龍のところへ行つて自分の夢占ひの話から始めて、買ふべき富札の番号を相談する」  神田伯龍はのちエンタツ・アチャコ、虎造等演芸界総出演の「初笑ひ国定忠治」にも出演していたが、忠治役がぴったりの、苦味走ったまことにいい男であった。 「が、その間にコソ泥(森野鍛冶哉)出現して、どさくさまぎれに、細工師の家から例の煙草入れの根つけを盗んでしまふ。それが長屋の騒ぎのもととなるとはコソ泥氏も御存知なかつた。とどのつまり八公は湯島の札場へ行つて富札千五百四十八番を大さうな元気で買ふ。札開票の日千両当つたのは八公にではなくて、八公が拾つて今は熊公が持つてゐる千八百四十五番だ。熊公が八公にその札を渡さうとすると、八公|肯《き》かない。その結果は長屋全部に金を分けてめでたく馬鹿ばやし」  最後の部分、この紹介ではまったく要領を得ないが、こっちもあいにくこまかいことは忘れてしまっている。  キャストは他に幸兵衛の女房が懐しや英《はなぶさ》百合子、その息子と嫁に「どんぐり頓兵衛」「これは失禮」でも恋人同士を演じた市川朝太郎と高尾光子がまたまた出ている。他は六兵衛に小杉義男、小僧に大村千吉といったところ。  先日、森卓也氏と話しあったのだが、市川朝太郎という役者、なんとも言いようのない大根でありながらどうしてかくもあちこちの映画に二枚目として顔を出しているのだろう、もしかすると名前から判断して梨園《りえん》の名門の御曹司《おんぞうし》で、あまりの大根ぶりに映画界へ追放され、映画界としても家柄の人なので無下《むげ》に扱うわけにもゆかず、しかたなくちょい出の二枚目に使っていたのではあるまいかなどといって笑いあったものである。そうとでも考えるしかない下手糞《へたくそ》だったのだ。  演技に関して友田氏はこう評している。 「出演者では藤原釜足、清川虹子、岸井明、春本助次郎、神田伯龍、徳川夢声、森野鍛冶哉、等がそれぞれ人を笑はせる芸を競つてゐるが、芸人の競演会に堕して、映画としての一貫した興味に乏しいのが欠点である。しかし、ヴァライエテイ風な映画としてこの映画を見るとき、釜足、伯龍、夢声、喜代三等はわれわれに芸の魅力を与へてくれる。春本助次郎も味であるが、演技としては清川虹子が又一段の進境である」  ぼくが見た限りでは演技に競演会的ばらつきはなく、チーム・ワークはとれていたし、長屋の雰囲気もよく出ていたようだ。現代のタレントと違って結局この時代の役者はすべて普段から基礎的教養として講談・落語に親しんでいた筈であり、当然のことながら科白《せりふ》も結構映画的にこなしていたと思う。友田氏は落語の寄せ集めを欠点とする評価の延長上で演技を批判しているのだろう。演出や撮影(吉野馨治)に対しても同様である。 「これはこれでひとつの興行映画として成立してゐるが、与《あずか》つて力あるものは監督並に脚色者よりも、落語と言ふ素材の良さやスタッフの充実してゐることの方にあるからである。猶又、この映画の寄木細工的脚本や、視覚的な興味を欠いた演出なぞは、岡田敬が大いに戒心を要する重大な欠点であることも特に書いて置きたい。カメラはこれら芸人の特質を躍如たらしむ可き捉へ方をしてゐないので余りとらない」  とは言うものの当時のぼくや地方に住む人たちのように、特に江戸落語の高座をまったく知らない観客にとってこの映画はたいへん有難いものであったことは確かである。何よりも江戸落語に馴染ができたのだから。たとえば最近の、古典を勉強していないタレント落語家ばかりが集まってこうした映画を作ったとしてもおそらく長屋の雰囲気は出せなかったろう。現代と比較するのはいけないのだが、そう考えてみると現代から振り返ってみて友田純一郎氏の求めるものがどれほど程度の高いものか、ちょっと想像を絶するものがある。何度も言うようだが当時の批評家はまったく厳しかったのだ。その証拠に興行価値欄にはこう書かれていて、これはぼくの思ったことを裏づけてくれてもいる。 「日劇封切で大好評。最もP・C・L的特色を配役の上に発揮した映画であり、地方館では絶対に歓迎される映画である」  これも森卓也氏から聞いた噂《うわさ》だが、この岡田敬という監督、戦後消息を断ち、現在に到るも行方不明だそうだ。たいへんな奇人であったとのこと。  さてこの昭和十一年の秋には、映画史上に残る数多くの名作・大作が封切られている。ご参考までにちょっと紹介しよう。  松竹の超大作「男性対女性」は八月二十九日に東京劇場で封切られている。監督は島津保次郎、主演が上原謙、佐分利信、田中絹代、桑野通子、高杉早苗、水戸光子他オールスターという豪華なものである。むろんのこと大入り満員。ぼくは見ていない。  九月十一日には帝劇、大勝館、武蔵野館でジュリアン・デュヴィヴィエ監督「地の果てを行く」が封切られている。ジャン・ギャバン、アナベラ主演の外人部隊もの。高校時代に大阪・四ツ橋の文楽座で見てたいへん感激し、一部は「馬の首風雲録」に応用している。  大勝館は「地の果てを行く」と「来るべき世界」の二本立てである。言うまでもなくH・G・ウェルズ原作、アレクサンダー・コルダ総指揮のロンドン・フィルム超大作、空想科学巨篇である。これは同じ九月十一日に日劇で、十月一日には大阪・京都・名古屋・神戸の各松竹座で封切られている。出演はレイモンド・マッセイ、ラルフ・リチャードスン、セドリック・ハードウィック(まだサーではなかった)。見たくてしかたがない映画だが残念ながら未見。小雁ちゃん、いつか見せてね。  九月三十日、日比谷映画劇場で「化石の森」封切。いうまでもなくハンフリー・ボガートの本格的デビュー作。監督アーチ・メイヨ、出演レスリー・ハワード、ベティ・ディヴィス。ボギーは配役序列《ビリング》五番め。深夜のテレビで二、三回見ている。  樋口健二の傑作「祇園の姉妹」は十月十五日に浅草帝国館、丸の内松竹劇場、新宿と麻布の松竹座で封切。山田五十鈴と梅村蓉子の主演である。いかに名作であろうとぼくの好みの映画ではなく、未見。  ピエール・ブランシャールがラスコリニコフを演じた「罪と罰」は十月二十八日、帝劇、大勝館、武蔵野館、京阪神の各松竹座、名古屋の八重垣劇場で封切。監督はそれまでシュール・リアリズムの映画を作っていた新人ピエール・シュナール。未見。  ユニヴァーサル超大作「ショウボート」は十一月四日に日比谷映画劇場、東横映画劇場、横浜宝塚劇場で封切。ジェローム・カーンとオスカー・ハマースタインの作曲作詞コンビで主演はアイリーン・ダン。歌手ではヘレン・モーガンとポール・ロブスンが歌っている。主題曲はもちろん「オールマン・リバー」である。見たかったなあ。 「隊長ブーリバ」もこのころの封切だ。ぼくは幼少の砌《みぎり》にこれを見ている。次章で紹介しよう。 [#改ページ]  「隊長ブーリバ」  ニコライ・ゴーゴリの名作「タラス・ブーリバ」を映画化した「隊長ブーリバ」が日本で封切られたのは、製作された年の昭和十一年である。この映画をぼくが見たのは戦後の不良少年時代ではない。封切当時か、もしくは封切られてしばらく後の、少くとも二番館あたりで見ているのだ。  ちょっと待て。お前いったい歳はいくつだ。なに。四十五歳。そんなら昭和九年生まれで、この映画を二歳の時に見たということになるではないか。そんな幼い時に見た映画を憶えているわけはなかろう。  ところが憶えているのである。しかもその後、成長してから一度も再見しなかったにかかわらず、である。ひどく印象に残ったのだ。印象に残った、などという言いかたはなまやさしい。衝撃を受けたといっていいだろう。どういう衝撃を受けたかは、この映画を紹介しながらぼつぼつ語っていこう。 「TARASS BOULBA」は、フランスG・Gフィルムの作品で、「モスコーの一夜」で有名になったフランス文壇の当時の巨匠ピエール・ブノアがゴーゴリの原作を改作・脚色し、監督はそれまでドイツで映画を撮っていたアレクシス・グラノフスキーである。このグラノフスキーはフランスへやってきて映画を作りはじめ、「お洒落の王様」と、前記「モスコーの一夜」を監督し、一躍大衆的メロドラマ作家として旗幟《きし》を鮮明にしての、これが第三作目。撮影は「モスコーの一夜」のフランツ・プラネルを中心にルイ・ネとジャン・パシュレが協力している。  物語はよくご存じとは思うが、とりあえずキネ旬のストーリイにしたがってキャストを紹介していく。 「その昔、コサックは剽悍《ひようかん》奔放、定住を嫌うて、所在を掠奪して移り歩いた。タラス・ブーリバ(アリ・ボール)は老いてなほ半世の武勲を忘れず、ポーランド人の藁人形の首をはねて髀肉《ひにく》の歎《たん》を医《いや》して居た」 「にんじん」でご紹介ずみのアリ・ボールである。まさに適役で、今でもあの大入道じみた、もしくは海坊主じみた、なまず髭の怪異な顔の扮装を思い出す。最近キネ旬でこの顔のクローズ・アップの写真を見た途端幼年期の記憶まざまざと蘇《よみがえ》り、わあっこいつだなどと思ったものである。キネ旬の合評でも清水千代太氏が「この映画の功績の半ばはタラスに扮したアリー・ボールの巧さにあると言つてもいゝと思ふ」と褒め、飯田心美氏も同感し、滋野辰彦氏も「今度のは大きな声を出して熱演してやつて居るけれども、映画自身がさういふ演技を要求するやうなものだし、他の人の演技もさういふ型に嵌《はま》つて居るし、何だか今度のは古い歌舞伎のあら事の型みたいな気がして非常にいゝと思つた」と言っている。また批評欄では内田岐三雄氏が「この映画からアリー・ボールのタラス・ブーリバを除いたとしたら、その残りは恐らく多分に空虚なものであるだらうと想像する」とまで言っている。 (画像省略) 「老隊長タラスの悦びは、二人の息子が学業を卒へて帰つて来ることであつた。長男オスタップ(ロジェー・デュシェーヌ)は飽く迄父に似て武骨であつたが、次男アンドレ(ジャン・ピエール・オーモン)にはマリーナ(ダニエル・ダリュウ)と名のみしか知らないポーランド人の恋人があつた。彼は惜しい袂《たもと》を分《わか》つて父の許へ帰つたのだつた」  繊細で近代的なマスクをした若き日のジャン・ピエール・オーモンの美しさは子供心に惚れぼれするほどで、それ故にこそ次男アンドレの悲劇に心を打たれたのである。しかし当時の批評家の彼に対する評価は、コサックらしくないというので香ばしくない。「どうも顔とか身体とかに非常に近代的な所があつて、コサックの豪放さを持つてゐない」と滋野氏が言えば清水氏も「こんな時代ものに出るべき役者ぢやないよ。それに演技だつて青い。早く言へばジャン・ピエール・オーモンはこの映画のぶち壊し役をしてゐるやうなものだ」飯田氏も「あれがもう少しコサックらしい感じが出て、古典的な凛々《りり》しい一面もあつたら、僕等ももつと同情を持つし、あの親父の悲しみなんかももつと強く出て来たのぢやないかと思ふ」と言っている。子供時代の記憶と感銘にのみよりかかっての反論になるが、しかしコサックにだってたまには柔弱な文学青年だって生まれただろうから、一種の醜いあひるの子の悲劇として捉えてもよかったのではないかという気もする。あの女性的な美男子だからこそこちらの胸にはより痛いたしさが感じられたのだ。  一方、ダニエル・ダリュウの記憶はまったくない。性的対象が未分化で、美女への関心よりも美男への関心の方が強い時期だったからかもしれないが、実際にはダリュウの出演場面が少かったせいらしい。  ジャン・ピエール・オーモンとは対照的に、長男オスタップのロジェー・デュシェーヌはずいぶん褒められている。清水千代太氏は「コザックの感じを出してゐて、新人だけれども好感の持てる演技と言へる。フランス映画の若い役者でこんなに感じのいゝのは余りないと思ふ。まあ若い奴と言へば、オーモンか『ミモザ館』に出たポール・ベルナールあたりだけれども、あの連中に比べると、デュシェーヌはもつと未来もあるやうな気もする」と言っているが、実際にはジャン・ピエール・オーモンの方が名をなしてしまった。オーモン、このころは「黒い瞳」や「乙女の湖」で人気が出てきていて、配役序列《ビリング》ではトップのアリ・ボール、当時フランスで大人気だったためこの映画でもたいした役ではないにかかわらず一枚タイトルで二度も名前が出るくらい優遇されていたダニエル・ダリュウに続き、三番目である。 「息子達を迎へて老いたるタラスの血は再び湧いた。戦争だ。ポーランド人を叩き潰せ、と許《ばか》り老雄タラスの命令一下、勇敢なコサック隊は、暴政の悪名高い知事ザムニッキイ(ポール・アミオ)を懲すべく攻め立てる。とは知らぬザムニッキイは令嬢マリーナ姫の誕生の祝宴を挙げてゐた。怒濤《どとう》の様なコサックの鯨波《とき》。ポーランド人の酔ひは醒めた。見れば城は蟻のはひ出る隙間もない位に包囲されてゐる。今は首府ワルソーから援軍の来るのを待つの外はない。敗戦また敗戦、城内には早や糧食も乏しい」  親たちがぼくをつれてこの映画を見たのは、こうした戦争場面なら子供にもわかり、充分面白いだろうと斟酌《しんしやく》してのことだったのであろうが、どうも親の期待を裏切ってばかりいる悪い子で、この辺の戦闘シーンをまったく記憶していないのである。どうしてだかわからない。  キネ旬の略筋《あらすじ》には出てこないが、他の配役を紹介しておくと、原作にはないコサック娘のガルカという役をジャニーヌ・クリスパンが演じている。このガルカが、馬小屋の藁の中で寝ている兄弟にけたけた笑いながら桶《おけ》の水をぶっかけて逃げるという、ごくつまらないシーンを記憶している。長男の恋人役だったのだろう。合評では飯田氏が「クリスパンの顔は西洋人の顔としては平べつたくて日本人向きのタイプだけれども、演技が巧いのでいつも感心させられる」と褒め、清水氏も「彼女にあれ位巧さを発揮させ、さうしてコザックの気分を作ることに寄与して居るのだから、この役を設けたといふことは脚色の上から言つても結局成功だつたと言つてもいゝ」と言っている。 「或る日、マリーナ姫は城壁から寄せ手のコサックの中に居るアンドレの姿を認めた。アンドレも彼女が兵糧攻めにされてゐる城にあることを知つて戦意を失つて了ふ。霧の夜、姫は小間使(ナーヌ・ジェルモン)をアンドレの天幕へ遣り、城内の模様と自分の切ない気持を訴へた。情熱の焔は燃えた。恋に眼くらんだアンドレは、父と兄と仲間を裏切つて、食糧を携へて敵の城に入つた。そしてマリーナ姫を抱いて、ポーランドの騎士としての忠誠を誓つた。息子に裏切られたタラスは覚悟を決め猛然と城を攻め立てた。城を支へるものはアンドレの一隊しか無い。姫が出陣を引止めるのを振切つてアンドレは前線に立つた。そして悲壮にもアンドレは父タラスの面前に若い命を捨てたのである」  アンドレは父タラスに殺される。鮮烈に記憶しているのはこのシーンである。戦場の一角で、アンドレは父タラスと出会い、向かいあう。この時のアンドレはポーランド式の鎧《よろい》を身につけているのだが、その姿が実に美しかった。内田氏も「ジャン・ピエール・オーモンはポーランドの鎧に身を固めた若武士姿がいいだけで」と書いているから、その美しさだけは認めざるを得なかったのだろう。父タラスが何か言う。なにしろ二歳の時だから字幕が読めない。アンドレは無言である。タラス再び何か言う。アンドレ無言。タラス、剛弓を発射する。アンドレはのけぞり、倒れる。この時タラスが発射したのは拳銃であったような記憶があるのだが、この話は十五世紀であり拳銃の発明は十八世紀、そんなものをタラスが持っている筈がない。アンドレが射たれるなりジャーンというBGMが入るので(音楽はパウル・デッサウ及びアジョス。批評では内田氏が「コザック気分を盛り上げる点に於て、大いに寄与してゐた」と書いている)拳銃の音のような気がしたのだろう。美貌の青年が殺されるのは実に痛ましかったが、それよりも衝撃的だったのは「父親が息子を殺した」という非情さであり、これは心にあとあとまで一種のトラウマ的な残りかたをした。「息子殺し」というのは非情でもあるが、また封建的なロマンチシズムを触発させる古典的な美しさも持っている。逆に「オエディプス王」などの「父親殺し」の方は、この「息子殺し」の衝撃の記憶があるためあまり驚かなかった。というのは、この「息子殺し」に関してぼくにはもうひとつ、強烈な読書体験があるからだ。もうおわかりだろうが言うまでもなくメリメの「マテオ・ファルコーネ」である。 「隊長ブーリバ」を見てから十年のちの話になる。疎開先の千里山の松山邸の洋室には父の蔵書が雑然と積みあげられていたが、その中に鈴木三重吉主宰「赤い鳥」全巻|揃《そろ》いがあった。ぼくはこれを何度となく読み返した。巻頭にはしばしば三重吉自身が児童向けに翻訳した名作短篇が載っていて、「マテオ・ファルコーネ」もその三重吉訳で読んだのである。この「赤い鳥」はのち父が売り払ってしまい、今は手許にない。そこで岩波文庫のメリメ短篇集「エトルリアの壺」に収録されているものを参考にして、これも大方はご承知と思うがちょっとあらすじを紹介する。  コルシカの牧人マテオ・ファルコーネはその地方に名高い銃の名人。フォルチュナトという十歳になる息子がいる。ある日マテオは畜群を見まわりに妻を伴い、家にフォルチュナトひとりを残して出かける。留守番をしている子供の前へ、コルシカ兵に追われた男が逃げてきて、かくまってくれと頼み、五フランの銀貨をフォルチュナトにやる。子供は枯れ草の山の中へ男をかくしてやる。やがてひとりの下士に伴われたコルシカ兵たちがやってきて男の行方を訊《たず》ねる。子供は答えない。下士はフォルチュナトをおどしたりすかしたりした末、銀時計を取り出して誘惑する。フォルチュナトはとうとう男の居場所を教えてしまう。男は捕えられる。帰ってきてこのことを知ったマテオは息子から銀時計をとりあげ、石に叩きつけて砕く。「おれの血筋で裏切りをやったやつはこいつが初めだ」  フォルチュナトは泣き出す。妻はとめるが、マテオは息子をつれ、銃を肩に外へ出る。妻は聖母の像の前にひざまずいて祈る。ファルコーネは浅い窪地《くぼち》へ息子をつれていき、大きな石のそばへ行けと命じる。子供はその通りにする。そしてひざまずく。  ここから先、最後の部分の杉捷夫氏の訳は、ぼくが読んだ三重吉訳とさほど違わないので、少し長いが引用させて頂く。  ──ご祈祷をしろ。  ──おとっさん、おとっさん、殺されるのはいやだよう!  ──ご祈祷をするんだ!  マテオは恐ろしい声でこう繰り返した。子供はすすり泣きながら、小声でぶつぶつパテールとクレドを唱えた。父親は一つ一つの祈祷の句切りで、アーメンと太い声で唱えた。  ──貴様の知っているご祈祷はそれだけか?  ──おとっさん、まだアヴェ・マリアと伯母さんから教わった連祷を知っています。  ──長いな。いいからやれ。  子供は消え入るような声で連祷を唱えおわった。  ──それでおしまいか。  ──おとっさん! 後生《ごしよう》だよう! かんべんしておくれよう! もうしないよう! カポラルの伯父さんに一生懸命頼んでジャネットを許してもらうからよう!  子供がまだ言い終わらぬうちに、マテオは鉄砲の撃鉄を掲げ、ねらいを定めながら、言った。  ──神様に許してもらえ!  子供は起き上って父の膝に抱きつこうと、必死の努力を試みた。が、間に合わなかった。マテオは引き金を引いた。フォルチュナトはばったり倒れてこときれた。  死骸の方は振り向きもせずに、マテオは家路をさして歩き出した。子供を埋めるために鋤《すき》を取りに行くのである。五、六歩行くか行かぬうちに、彼は銃声に驚いて駈けつけたジュゼッパに出会った。  ──何をしたんです、この人は? と、妻は叫んだ。  ──裁きをつけたのだ。  ──あの子はどこです?  ──あのくぼんだ所にいる。今埋めてやる。やつは信者として死んだんだ。ミサをあげてもらってやろう。婿のティオドロ・ビアンキにこっちへ来て、一緒に暮らすように、そう言ってやれ。 「裁きをつけたのだ」という科白《せりふ》が凄い。泣いているわが子を射殺するのだから残酷な話であるが、この父親像は一方の理想でもある。「カルメン」もそうだがメリメの作品はたいていが実話にもとづいているそうで、おそらくこれもコルシカで本当にあった話なのだろう。不良少年時代、たび重なる悪事に腹を立てた父からぼくは何度も説教されたものだが、思い切った処分などされる筈がないとたかをくくっていてまったく平気だった。しまいには短刀を出してきた父に「のどを突いて死ぬか」などとおどされた。無理やりやらされる心配もなし、そんなことを言うぐらいなら自分で殺せばいいのに、などとマテオやブーリバを思い出し、コルシカ人やコサックと日本人との民族性の違いもわきまえぬ癖に、「裁きをつけ」られぬ小心の父を軽蔑したりしていたのだからずいぶん勝手で、いい気なものである。もし父親がマテオなら命がいくつあっても足りはしない。  寄り道をした。「隊長ブーリバ」に戻る。 「其時ワルソーからの援軍が到着し、コサック隊は背後を衝かれて一敗地に塗《まみ》れた。しかもタラスは傷《きずつ》き、長子オスタップは捕へられて死刑を宣された。これを聞いたタラスは奇計を以て城内に入り手兵を率ゐて咄嗟《とつさ》の間にオスタップを救ひ出して逃げたが、自らは致命の傷を受けた。槍を伏せて、コサックの一隊は老将の終焉《しゆうえん》を葬ふべく哀傷の歌を歌ひ出した」  ラストの、タラス・ブーリバが死ぬ場面もまざまざと憶えている。木に凭《もた》れかかった瀕死のタラスが何か叫ぶ。今キネ旬で見ると、どうやら「女のような歌をやめろ。死んでいくのはコサック、タラス・ブーリバだ」というようなことを叫んだらしい。コサック達が槍をかざし、勇壮に突撃して行くのを見ながら、タラスは木に凭れたままずるずるとくずおれる。  この映画、大阪では十一月三日に松竹座で封切られているから、もしかしたらぼくはこの時に見たのかもしれない。というのは、心斎橋松竹座のすぐ近くに筒井家の菩提寺《ぼだいじ》である三津寺があり、墓も千日前にあったから、法事の帰りにでも立ち寄ったのではないかと考えられるのだ。さもなければ新世界あたりの二番館であろう。その頃父は天王寺の動物園に勤めていたし、家は阪和線の南田辺駅の近くだから、映画はたいてい新世界で見ているのである。  ぼくがアリ・ボールを見たのは「にんじん」と「隊長ブーリバ」だけだ。「巨人ゴーレム」も見ているのだが、アリ・ボールがどこに出てきたのか記憶にない。  この人は不幸な最期《さいご》を遂げている。「隊長ブーリバ」から六年のち、遺作となったドイツ映画「人生交響曲」を撮るためベルリンへ旅行中にユダヤ人だった妻がナチに捕えられ、彼はスパイの疑いで拷問《ごうもん》された。二年後に釈放されたものの、拷問の衰弱のため六十三歳で数日後に死亡。押しも押されもせぬこのフランスの名優にしてこの苛酷《かこく》な運命。悪い時代だったのだが「隊長ブーリバ」が日本で上映された頃は戦争の影響もまだ映画にまでは及んでいなかったのである。 [#改ページ]  エノケンの「江戸っ子三太」  昭和十二年の一月に封切られたこの「江戸っ子三太」と前後して、エンタツ・アチャコ主演映画の第三作「心臓が強い」、及びキートン最後期のトーキー映画「スペイン嬌乱」が封切られている。「心臓が強い」も「スペイン嬌乱」も見ているが、両方とも駄作だった。したがってこの映画史でそれぞれ一回分を費して紹介するのはやめておき、今回、その駄作ぶりを説明しておくにとどめよう。  P・C・L映画「心臓が強い」は戦後ニュー・プリントで、なぜか大映系の吹田館にかかっていた。前二作と同じく原作は秋田實なのだが、監督は岡田敬にかわり大谷俊夫。どうもこの監督がよくなかったらしいのだが、題材もよくなかった。エンタツ・アチャコ扮する新聞記者が男子禁制の美人島を探訪する話なのだ。だいたい「裸島」だの「女人国」だのが題材の喜劇はアチャラカになることが多く、アチャラカならアチャラカでもよいのだがたいていはギャグ皆無の失敗作に終る。作る側も観る側も着想の面白さ(今や陳腐だが)と出演する喜劇役者のキャラクターとの組合せから抱腹絶倒の爆笑喜劇を期待するのだが、結局は決定的なギャグを生み出し得ぬまま下品なエロティシズムに寄りかかっただけの不発弾となることは、同じ題材の他の多くの喜劇をいくつか思い出すだけで明らかであろう。エロは文章で書けばいくらでもいいギャグを生み出し得るが、視覚的にはナマ過ぎて薄汚くなるだけなのだ。この映画でもこの種のものの例にならいエンタツ・アチャコの女装のくだりがあるが、アチャコの日本婦人姿がちょっと似合っているので笑えるぐらいで、エンタツのトルコ婦人姿は醜悪であり、ギャグになっていない。美人島会長石田女史が石田一松とあっては尚さらである。キャストは他に、二人を怒鳴る編輯長に嵯峨善兵、島を逃げ出したがっている娘に堤真佐子、その母が清川玉枝、二人を悩ます猛烈なおしゃべり女が沢村貞子といったところ。スタッフは撮影が鈴木博、音楽が谷口又士である。  ところがこういう映画に観客は何故か甘く、前二作の成功もあってか、一月十四日に封切られた日劇、東横映画劇場、一月五日封切の千日前・敷島倶楽部、いずれも驚異的満員だったという。キネ旬の映画評でも水町青磁氏が、貶《けな》しながらも興行価値としては「お笑ひは充分。漫才ファンには殊に面白い」と書いている。漫才の部分が多かったし、エンタツがいんちきのトルコ語を喋《しやべ》ったりするところなどが面白かったのかもしれないが、とにかくぼくにとっては動きのギャグが皆無であった点でどうしても駄作としか思えなかったのだ。  キートンの「スペイン嬌乱」は戦後、国電天満駅近くにあるこれも大映系の錦座で見た。封切館なのに「スペイン嬌乱」はニュー・プリントではなく、フィルムの悪いブツ切れ状態で上映されていた。キートン従来のサイレント時代のようなドタバタであればそれで充分面白かった筈だが、この映画は駄目だった。まったくもう、アカンという感じで駄目であった。トーキーとなり、ストーリイ性が重視されていたのか、とにかくギャグ皆無、ただキートンがでかいコントラバス、今でいうならウッド・ベースを肩にかついで逃げまわり、追ってくるやつがそのでかい楽器にぶつかってぶっ倒れるというドタバタ・シーンしか憶えていない。しかもこれが夜のシーンなのでフィルムの悪さが加わり尚さら動きがわからぬ。名だけは聞いていたものの、何がキートンだと思い、あきれ返ったものである。そしてぼくがキートンの映画を見たのは、数年前のリバイバル上映までに、ただこれ一篇のみであった。運が悪かったとしか言いようがない。ぼくの小説を読んで「キートンの影響がある」などと評した人もいるが、実はキートンなど、この一篇以外はまったく見ていないし、評価してもいなかったのだ。 「スペイン嬌乱」の原題は「AN OLD SPANISH CUSTOM」で、これがイギリスのJ・H・ホフバーグ社で製作されたのは昭和十一年、キートンとしては最新作だったのだろうが、キネ旬の広告には「キートン最後の傑作」と謳《うた》われているから、これが三木商事によって輸入され、大阪パーク劇場で同じ年の十二月二十九日に封切られた頃には引退していたのかもしれない。原作・脚色はエドウィン・グリーンウッド、監督はエイドリアン・ブルーネル、撮影はオイゲン・シュフタンとエリック・グロス。スペインへヨットでやってくるアメリカの金持レアンダー・プラウドフットというのがキートンの役。他にルピタという美女がルピタ・トヴァー、恋敵がエムス・ダーシー、リン・ハーディングといったところで、ストーリイは他愛もない恋愛合戦。キネ旬の映画評で村上忠久氏はこう書いている。 「バスター・キートンの喜劇と言へば一昔前は絶好のお正月物でもあり、亦面白かつたが、トーキイ以来の転落ぶりは余りに烈しい。そして此の映画はトーキイとなつてのキートン映画の中でも最もつまらぬ物であつた。キートンの個性と言つた物も全然出て居らず、(略)喜劇映画としては、恐らくは最下位に近き物であらう。メトロでのキートン映画などつまらないと言つても之に比しては遙かに『喜劇映画』であつた。淋し気なキートンのプロフィルを見る時、此のパースナリティはトーキイでは遂に生きぬものかと何か惜しい気がするのは、かつてのキートンへの愛着の残滓《ざんし》でもあらう」そして興行価値欄。「バスター・キートンの名には既に吸引力は多くない」その通りの成績であった。  強調しておくが現在のぼくのキートンに対する評価は昔とはまったく違っている。念のため。 (画像省略)  さて、エノケンの「江戸っ子三太」、キネ旬の広告では「エノケンの吾妻錦絵・江戸っ子三太」というきらびやかなタイトルになっていて、いかにもお正月映画という感じである。製作はP・C・L。原作・脚色が山本嘉次郎。監督がこの映画史ではもうお馴染の岡田敬。岡田敬にとっては前々章で紹介した「おほべら棒」に次ぐ作品である。このコンビを飯田心美氏は「山本嘉次郎と岡田敬はまつたく、うつてつけのチームと言へる」と褒めている。他のスタッフも撮影・吉野馨治、装置・久保一雄、音楽・栗原重一という例の如きP・C・L社中である。「吾妻錦絵」は、これが江戸の華である火消しの話なのでいやが上にも大江戸情緒を盛りあげようとしたわけであろう。この華やかさは例えば冒頭近く、火消し連中、普請場の幕越しに枝を出している満開の桜の下で ※[#歌記号、unicode303d]本所二丁目のナー、糸屋の娘 などと合唱している部分によく出ている。エノケンの役はこの火消し稼業ほ組の三下奴《さんしたやつこ》、三太である。三下だからまだ火事場へは出動を許されない。火事の時はいつも留守番をさせられる。しかし身軽であり、前記普請場の歌の場面でも彼だけは棟から棟へ軽がると身を移しながら歌っている。  ほ組の頭は新蔵といって、むろん柳田貞一の役。この人はこういう役をやらせれば天下一品である。その娘お初にP・C・Lの山縣直代。このお初に三太は惚れている。P・C・Lで売り出したばかりのこの山縣直代という女優は、可愛いがいささか下町風の下品さがあり、下品などというとちょっと可哀そうだが、ぼくはあまり好きになれなかった。なぜ宏川光子を、と思うのだが、「千万長者」の章で紹介した友田純一郎氏のような批評もあり、やはり政策上P・C・Lの女優も使わねばならなかったのだろう。宏川光子は宏川光子で、デコミツなどと呼ばれ、結構ファンも多かったそうだ。  お初の弟の勘太郎を、どんぐり坊やが演じている。この勘太郎がお初と一緒に歩いているのを見て、三太はお初に思いを打ちあけようとするが、勘太郎が横で聞いていて邪魔である。三太、小銭を出して勘太郎にやる。「おう。お前これで寿司食ってきな」  お初が言う。「わたしも食べたいわ」  三太一瞬、例の開いた顔をし、勘太郎を睨みつけ、すぐ笑顔になる。「よし、皆で行こう」  寿司屋の場面。ちゃきちゃきの江戸っ子を気取る三太、わさびがちっともきいていないと難癖をつける。よしというので板前、たっぷりとわさびを握りこむ。三太、涙をぽろぽろ出しながら食い、まだきいていない、いっそのことわさびを握ってくれと言う。板前驚くがこうなれば意地、わさびを握り寿司の形に握って出す。三太、お初がとめるのもきかずにそれを口に抛《ほお》りこみ、ぎゃあと叫んで大口をあけ、わさびだらけの舌を出す。このあたりこそ「エノケンは下品です。まだロッパの方がましです」と、中学二年の時の担任の清水女史が言う所以《ゆえん》であったのだろう。  ワイプしてカット変れば戸板に乗せられた三太が運ばれて行き、当時のオリンピックのファンファーレ。以下この戸板のシーンは、三太が江戸っ子を気取ってやり損い、眼をまわすたびに何度もくり返される。  さて、ほ組が働いている普請場というのは練馬|葛西守《かさいのかみ》という変な名前のお殿様の御下屋敷。重役の松井軍兵衛というのが見まわりに来ては文句を言う。このせっかちで心臓の悪い松井軍兵衛を演じているのが中村是好。  三太の兄貴分の清吉をやるのが二村定一。ヤマカジさんはどうやらエノケン一座の座付作者になった気で本を書いたらしく、いずれも嵌《はま》り役ばかりである。三下の癖に親分の娘など想うのは了見違いだと清吉からたしなめられた三太、口惜《くや》しまぎれに、あんな小娘何が好きなものか、おれの恋人は水茶屋やなぎの看板娘お紺だと言い出す。嘘をつけ。嘘じゃねえ。本当か、じゃあ行ってみようというので、ほ組の連中つれ立ってぞろぞろ水茶屋へやってくる。ちょい出の役だが、お紺をやっているのが宏川光子で、エノケン一座からの女優は彼女ひとり。「わたしはただ三太さんのひょっとこ踊りが好きなだけよ」三太すっかり面目を失うが、この時外を通りかかったのが辰巳《たつみ》の芸妓《げいぎ》お蔦《つた》。このお蔦の役は最初日活の黒田記代だったが、何かの都合で同じ日活の中野かほるに変更になった。写真を見るとどちらも玄人《くろうと》っぽい顔の美人で、容貌はよく似ている。  三太、今度は、あのお蔦とおれとはいい仲だと言い出す。「まさか」と仲間たち。じゃ見てろというので三太、外へとび出し声をかける。 「ああら三ちゃんじゃないの。久しぶりねえ」  おやおや、という顔の清吉たち。見ろ、というように仲間を振り返る三太。 「一度遊びにおいでな」とお蔦。「一緒にご飯でも食べようじゃないの」  へええ、とあきれて首を振る兄貴たちをうかがいながら、いい気になった三太、よせばよいのに大きく胸を張って言う。「おう、お蔦。お前そんなにこのおれが恋しいか」一方ではお蔦に目顔で、調子をあわせろと教えているのだが、お蔦はそれに気がつかない。「何言ってるんだねえ。馬鹿なことを、実の姉に向かって」  なんだ姉さんかというので清吉たちは大笑い。  この羽織衆お蔦に松井軍兵衛は惚れこんでいて、なんとか身請けしようとしている。いざお蔦を口説こうとすると軍兵衛の心臓が、お椀ほどの大きさでどっきん、どっきんと着物を破らんばかりにふくれあがる。この映画にはパラマウント式のくり返しギャグが多く、このどっきん、どっきんも最後のクライマックスまで何度かくり返される。  いよいよ棟上げとなり、お蔦を身請けする金のない軍兵衛はほ組の頭《かしら》新蔵を呼び、代金の勘定書きを胡麻化《ごまか》せという。これを立ち聞きしているお蔦。 「あっしゃあ曲ったことが大嫌えだ」と、新蔵はこれをことわる。「手討ちにいたすぞ」と刀をとる軍兵衛。新蔵尻をまくる。「どこからでもやってくんねえ」  別間で祝宴をひらいているほ組の連中。三太、便所へ行こうとして縁側へ出、庭越しに奥座敷で新蔵が斬られるのを目撃。へたへたと廊下へ腰を抜かし、柱を背にやっと立ちあがるが、この時のエノケンの動きの珍妙さは無類であり、ぼくはこの恰好《かつこう》を自分の家でよく練習したものである。 「たた大変だ」よろめきながら祝宴の間に戻ってくる三太。「なんだ。どうした」と清吉たち。「かか、頭が」「何っ。頭がどうした」「ばば、ばっさり」「何をっ」色めき立つほ組の連中。  だが結局どうしようもなく、ほ組は解散。お蔦は軍兵衛のため好きな男と別れなければならない。ここの部分で軍兵衛がどうやって身請けの金を手に入れたのか、いきさつがよくわからない。如月《きさらぎ》寛多が団子坂の仙兵衛という役で出ているのだが、これがどういう役であったかも記憶にない。おそらく軍兵衛の片棒をかついで彼に収賄させる悪役だったのであろう。  クライマックスが深川八幡の夏祭り。頭の娘お初が兄貴分の清吉と出来てしまい、一時はしょげ返った三太も、姉が軍兵衛に身請けされると聞いて発奮。江戸っ子集まれと呼びかける。「江戸っ子集まれ」「江戸っ子集まれ」たちまち纏《まとい》が立ち「お祭り気分」という古いジャズ・ソングが高鳴る。 (画像省略)  という曲で、映画では歌われなかったが歌詞はたしか「YAH! SHOUT IN A HAPPY EVERY ONCE IS YAH! SHOUT」とかなんとか言った筈だ。  一方、お蔦を待っている軍兵衛、またしても心臓がどっきん、どっきん。三太たちが近づいてくるにつれ、ますます動悸《どうき》がはげしくなるというカット・バック。しまいには心臓の先端がひゅるひゅると左肩の上まではねあがり、あわてて押さえこむというギャグ。ついにどやどやと軍兵衛の座敷にやってきた三太清吉を先頭とする火消し装束《しようぞく》の一団。と、軍兵衛立ちあがり、片足をうしろへ、片手を前へぐっと突き出した姿勢でとんとんとたたらを踏み、そのままばったり。心臓が破裂したのだ。おやおやと驚く一同。かくして三太は姉を救い、男をあげた。  ラストの立ちまわりのドタバタを期待していたぼくにはいささかあっけないクライマックスだったが、話としてはこうする他あるまい。さほどずば抜けたギャグもなかったにかかわらず、ぼくがこの映画を六、七回見たのは、華やかさと江戸情緒に郷愁のようなものを感じたからである。見た場所は天五中崎通商店街の旭座、千日前の南地映劇など。  ついでながらこの南地映劇、もとは南地劇場といって売れぬ頃のダイマル・ラケット等がパントマイムや軽演劇をやっていたが、二十三年頃から各社封切館となった。現在は国際劇場、国際シネマの二館となっている。当時は入場券売場からモギリまでの間に広い中庭があり、中央に噴水、横にかき氷屋や射的場が並んでいた。  その後新世界で、「沓掛時次郎」を見たあの寄りあい世帯ビルの五階にある日劇会館でつまらないつまらない映画を、つまらないなあと思いながら見ている時、「江戸っ子三太」を上映している階下の新世界日劇(現在新世界東映)からエノケン映画でお馴染のあの華やかなBGMが流れてきた。 (画像省略)  矢も楯《たて》もたまらず、すでに五、六回見ていながらすぐさま階下の映画館へ入りなおしたものである。このBGMは「江戸っ子三太」では、火事だというので火消したちが大あわてで準備し、勘太郎のどんぐり坊やがつきとばされたりしてまごまごしているシーンに使われていた。  昭和十一年の大《おお》晦日《みそか》に封切られたこの映画、日劇、東横映画劇場では超満員、「約一時間並ばねば入場出来ぬと言ふ盛況」だった。キネ旬興行価値欄は「P・C・L専売のエノケン笑劇といふ看板は、すでに確実に興行価値がある。正月日本劇場に上映、丸の内随一の成績をあげたことによつても、それは判る」と書いている。当時のエノケンの人気の凄さが偲ばれる。以下、飯田心美氏の評である。 「エノケンものとしては『千万長者』よりも無駄がなく、『どんぐり頓兵衛』と匹敵する面白さをもつてゐる。エノケンの特性をよくのみこんだ山本嘉次郎のシナリオの功績たることいふまでもないが、各場面の終り、つまり舞台でいへば『幕切れ』と覚しきところに、ギャグをもたせ、ちやんと締めくゝりをつけてあるところ、まづ第一にこの種類の映画としての感覚をそなへてゐる。(略)岡田敬の演出は『おほべら棒』よりも、練達を見せ、得意の戯作者気質を発揮してこのシナリオを土台として、ふんだんに笑劇的雰囲気を撒いてゐた。(略)エノケンの演技は例によつて変つてゐる。だが、結局、変つてゐるだけで、一つところに止まつてゐるのが困る。作者と力を協せて、行詰りを打開すべきだと思ふ」  いささか無理な注文、と思えぬでもない。 (フィルム・センター、フィルム・ライブラリー協議会、東宝のご協力を得ました)  発表誌 「オール讀物」昭和五十三年二月号〜昭和五十四年九月号  単行本 昭和五十四年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年十月二十五日刊